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画竜点睛
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作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-13 19:13:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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南北朝のころ、南朝の梁国に張僧ヨウという人がいた。右軍将軍や呉 興太守になったというから、官人としても志をえたほうではあろうが、 張僧ヨウの名が高かったのは、 そのためではない。彼のふるう画筆に よってだった。とくいとする山水や仏画はいうまでもなく、一管の筆で あらゆるものを生けるがごとくに画きだしたという。いわば中国の伝統 的な大画家だ。 あるとき張僧ヨウは、金陵(今の南京)の安楽寺から、竜を画くことを たのまれた。彼は寺の壁にむかい、やがて筆をおどらせた。黒団々たる むら雲をけやぶって、いましも天に昇ろうという二匹の竜‥‥、その鱗 の一枚一枚にも、鋭くはった爪にも、強い生命がみなぎっている。これ をみて感嘆しないものはなかった。 ただ、ふしぎなことが一つあった。竜の眼に、睛が画きこんでないのだ。眼はうつろのままだった。どう考えてもおかしなことではないか。 もちろん、せんさく好きの人々がほっておくはずがない。張僧ヨウが、 理由をうるさくたずねられたのは、まあ当然のなりゆきだろう。 そんなとき、彼はいつでも言ったという。 「いや、睛は入れられない。 あれを画きこんだら、竜は壁をけやぶって、 天に飛び去ってしまうのだ。」 うそだ、そんなことがあるものか‥、もったいぶっているのさ‥‥。 小うるさい噂がたったろう。ともかく、だれも信じようとしなかった。 睛を入れてみせてくれと、みんながせがんだともいう。 とうとう張僧ヨウは、その双竜の一つに、睛を画き入れることになっ た。彼は、墨をふくませた筆を、竜の眼にさっとおろした。ふいに、壁 のなかから電光がきらめき、はげしい雷鳴がとどろいた。と見るや、鱗 をひらめかせた怪竜が壁をおどりだし、うつけたような人々を尻目に、 はるか天のかなたに飛び去った。やっとわれにかえった人々が、また壁 を見れば、双竜の片方はすでにその中になく、睛を点じなかった一匹だ けが、まだ残っていたという(『水衡記』)。 このことから、「画竜天睛」といえば、物事の眼目になるところや、 最後のしあげをすることを言うようになった。逆に「画竜天睛を欠く」 といえば、全体としてはよくできているが、だいじな一点が足りません な、ということになる。願いごとの成就するのを「入眼」というのも、 これとかかわりあいがあろう。 こういう孤高の名人の語り伝えは、われわれのあいだに、ふしぎな人 気をもっている。中国でも張僧ヨウのほかに、民間の名匠魯般などの伝 説が多いし、わが国でも、飛騨の工から、応挙、甚五郎まで、かずかず の話がある。画にかいた雀がとびだしたという、落語の「抜け雀」も、 べつに由来をせんさくされもせず、ただよろこんで語りつがれてきた。 すぐれた人間の力が竜を天におどらせ、木の人形に生命をふきこむとい うこと、それがわれわれの心の奥底を、さわやかにゆすぶるのであろう か。そして、自分たちのほうは、願いごとが叶ってしまってから、やっ と目なし達磨に目を画きこむのである。
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