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騎虎の勢
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作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-13 19:16:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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魏・呉・蜀の三国の対立は、魏の勝利に終わり、魏は国号を晉(西晉) と改めて天下を統治したが、塞外民族の侵入によって亡び、新たに南方 の揚子江地帯に晉(東晉という)が、かつての呉の都建業(南京)を都とし て成立した。そして北の方の西晉の故地は匈奴・羯・鮮卑・羝・羌・の 五異民族、つまり五胡によって占領され、漢民族と対立抗争を続け、約 百三十年間に十六の国が生まれたり、亡んだりした。この後、東晉は内 乱によって亡び、新たに宋(南朝)が生まれ、以下、斉・梁・陳が相次い で立ち、一方北の方では、鮮卑が後魏(北朝)を立て、以来、東魏・西魏 ・北斉・北周が相次いだ。この時代を南北朝時代という。 さて、北朝最後の王朝である北周、その宜帝が死ぬと、外戚の漢人楊 堅は、後始末のため宮中に入った。この人は外戚であると同時に、人物 も立派だったので、総理大臣として、政治を総括していたものだが、自 分の国が異民族に占領されていることを、かねがね残念に思い、(折り あらば再び漢人の天下にしたい・・・・・・)と秘かに思いめぐらしていた。 そこへ宜帝が死んだ。その息子はまだ年も幼く、あまり利口ではなかっ たので、うまく奔走して帝の位をゆずらせ(実はムリヤリに奪ったのだ が・・・・・・)、正式に隋の国を建てた。時に西暦五八一年、これで北朝は 亡びたわけだが、堅はそれから八年後に南朝の陳を亡ぼして天下を統一 している。これを隋の高祖文帝という。 この文帝の皇后を独孤皇后という。かねて夫から大望を打ち明けられ ていたので、宜帝が死亡し、夫がいよいよ北周の天下を奪うため、宮中 に入って奔走画策していることを知ると、人をやって言わせた。 「一日に千里走る虎に一旦乗った以上、途中で降りることはできませ ん(騎虎の勢下ることを得ず)、途中で降りれば、食われてしまうで しょう。虎といっしょに最後まで行かねばなりません。すでに大事 を起こすことに立ち上がられた以上、途中で止めてはいけません。 必ずや目的を果たすよう、がんばって下さい。」 堅がこの妻の健気な言葉にはげまされたのはいうまでもない。 皇后は河南の人、北周大司馬である河内公の信の娘だが、信は堅を見 込んで、彼女が十四歳のとき嫁にやった。彼女、初めの頃はすなおで、 妻の道をよく守っていたが、後に姉が北周の明帝の皇后、長女が宜帝の 皇后となるに及んで、次第にいばり出した。 だが、こういう話もある。かつて異民族がその値八百万金という立派 な珠玉を持ち込んだことがある。ある人が、彼女に「それを買いなさい」 とすすめた。しかし彼女は、 「いま外敵がしきりに侵入しており、将兵はその防戦につかれていま す。玉を買う八百万金もの金があったら、功を立てた将兵にくれて やった方がはるかによろしい。」 といって、玉を買わなかったという(「隋書」・独孤皇后伝)。とにかく 女傑だったことに違いはない。 なお「隋書」には「騎虎」でなく「騎獣」となっている。これは高祖文帝の 名が虎なので、わざわざ虎をさけたものだ。ところで一説に、帝は漢人 ではないともいう。すると、征服者たる異民族の帝がなぜ漢人を皇后に したか。それは、文化の低いこれらの民族は、万事を漢人にならい、そ の文化を取り入れようとしたからで、中国の歴史が示すように、漢民族 は異民族の征服者をいつもこうやって同化し――結局倒してしまうので ある。
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