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采薇の歌

作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-15 20:32:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 司馬遷の著した壮大な歴史書「史記」には、六十九の列伝があるが、そ
の第一は伯夷列伝である。ここには伝説的聖人である伯夷と叔斉のこと
がのべられている。しばらくその話を追おう。……
 
 
 伯夷と叔斉は孤竹(今の河北省廬竜県)の君の子であった。孤竹君は末
子の叔斉を跡継ぎとしようと考えていた。しかし父の死んだのち、叔斉
は、自分が父の跡を継ぐのは礼にそむくものとして、兄の伯夷にこれを
譲ろうとした。だが伯夷は、父の遺志にそむくことは子としてとるべき
ではないとして、これを受けず、兄弟は互いにこれを譲りあった。つい
に伯夷は、自分さえここにいなければと思い、密かに国を逃れ去った。
だが叔斉もすぐ兄のあとを追って国を捨ててしまったので、国人は別の
兄弟を立てて王とした。
 
 こうして伯夷と叔斉とは、かねてから仁徳の聞え高い西伯(周の文王)
をしたって、西のかた周の国にむかった。しかし、ふたりが周に着いた
ときは、西伯はもう死んでいた。情勢も大きく変化していた。
 
 これまで中国北部を制圧していた殷王朝の基礎は大きくゆらぎ、西伯
の跡をうけて立った太子の発は、みずから武王と称し、広く諸侯の軍を
あつめ、大軍を発して、東のかた殷の紂王を討とうとしていた。武王は
軍中の車に父の位牌をのせていた。
 
 伯夷と叔斉は、これを見のがすことができなかった。周の軍がまさに
進発しようとするとき、ふたりは王のまたがる馬を左右からおしとどめ
て、武王を諫めて言った。
 
 「王よ、父王がなくなられてまもない今、
  その祀りもされないままに戦陣におもむかれるのは、
  孝子の道と申せましょうか。
  また、紂王はあなたの主君でございます。
  臣下の身として君を殺すということは、仁と申せましょうか。」
 
 しかし武王は、ふたりの言をきかなかった。大軍はついに進発し、や
がて牧野の戦いで殷の軍を破って、周は殷に取って代ることとなった。
 
 
 歴史の歯車は大きく回転した。各地の諸侯もこぞって周を宗室とあお
ぐ世になったが、伯夷と叔斉はその世にさからった。暴にむくいるに暴
をもってする武王のやりかたに、彼らはいささかの道も認めることがで
きなかったし、そうした周室にしたがうことは恥ずべきことであった。
信義を守って周の粟を食らわず、と心にちかったふたりは、遠く人里を
離れた首陽山(山西省水済県ともいうが、諸説あり)に隠れ、薇をとって
命をつないだ。餓えて死のうとするとき、こんな歌をつくった。……
 
   かの西山に登り その薇を采る
   暴を以て暴に易え その非を知らず
   神農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん
   于嗟徂かん 命の衰えたるかな
 
 こうして、この「采薇の歌」に世をうれい、うらむ思いをのこし、いに
しえの聖王たる神農・舜・禹の世をしたいながら、彼らはついに餓えて
死んだという……。
 
 
 英雄豪傑でもなく、大学者でもない、世をいとうて餓え死にした、い
わば不思議なふたりの老人。司馬遷はその伝を、あえて列伝の冒頭にす
えた。それはその逃避を笑うものでも、その行為を無条件に讃えるもの
でもなかったろう。武田泰淳の語るごとく、彼は「伯夷・叔斉の聖人ぶ
りを語りたいのではない。(自らの反対する無道が実現して、この世界
は悪の世界となった)その絶体絶命の境地を主張した」のであろうか。そ
して司馬遷はつづけて、「天は常に善人の味方をする」というのを疑い、
「天道 是か非か」という根元的な問いを発する。そしてこれを第一とし
て、人世の驚くべき万華鏡ともいえる、史記列伝の世界を展開しはじめ
るのだった。「采薇の歌」は、こうして司馬遷によって生かされた。司馬
遷の憂い・憤り・疑い・信念を重ね焼きされることによって、それはく
りかえし、くりかえし、人の心を打つものとなったのである。
 
 
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