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過ぎたるは及ばざるがごとし

作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-16 16:56:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 あるとき、弟子の子貢が孔子に聞いた。
 
 「セン孫師(字は子張)と卜商(字は子夏)とでは、
  どちらが賢なのでしょうか?」
 
 おそらくこの二人は、よほど対照的な性格の持ち主だったのだろう。
「論語」には、こんなエピソードが記されている。
 
 
 一日、子張が孔子にこう訊ねた。
 
 「士としてどういうふうなら[達]といえるでしょう?」
 
 孔子は、逆に子張に問うた。
 
 「どういうことだ、君のいう[達]というのは?」
 
 「諸侯に仕えても必ずその名が聞え、
  卿大夫の私臣となっても、
  やはりその名が聞えるということです。」
 
 「それは[聞]であって[達]ではないよ。
  本性が真っ直ぐで義を好み、
  言葉や顔色から相手の気持を見抜き、
  慎重に考えて他人にへりくだるようにし、
  その結果、おのずから、
  諸侯に仕えても、卿大夫の私臣になっても、
  誤ることがない、
  こうなってこそ[達]といえるのだ。
 
  ところが、
  仁徳ありげな顔つきをしながら、
  道に外れた行いをし、
  しかもそれに安んじて疑わないでいると、
  諸侯に仕えても、卿大夫の私臣になっても、
  やがて君子だなどと言われるようになる、
  これが[聞]というやつさ。」             (顔淵篇)
 
 
 孔子は、子張の虚栄心を叩いたのだった。しかし、叩かれるだけ、子
張は、何ごとにも積極的で、自由奔放に自身を誇示しようとする所があ
ったに違いない。
 
 一方、子夏には、こうさとした言葉がある。
 
 「君子儒になれよ、小人儒になるな!」         (雍也篇)
 
 君子儒というのは、自身の修養を本義とする求道者のことで、小人儒
というのは、知識を得ることだけに汲々としている学者のことである。
おそらく子夏は、やたらに金科玉条をかかえこんで、そのために身動き
のとれぬような所があったのだろう。
 
 この二人の比較を乞われた孔子は、子貢に答えていった。
 
 ――師(子張)や過、商(子夏)や及ばず。(師也過、商也不及。)(先進篇)
   (師は過ぎるし、商は及ばない。)
 
 「では、師の方がまさりますか?」
 
 ――過ぎたるは猶及ばざるがごとし。(過猶不及。)
   (過も不及と同じことだ。)
 
 通常、これは[中庸]を教えた言葉と解されている。わかりよければそ
れでも差支えはないが、私としては[調和]を説いた言葉と解したい。孔
子が追求した窮極のものが、自己と外界との完全な調和だったからだ。
 
 
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