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楚人弓を遺れて楚人これを得
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作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-16 16:59:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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孔子の生まれた頃、中国は、晉を盟主とする北方諸侯同盟と、楚を盟 主とする南方諸侯同盟の二大勢力に分かれて相対峙していたが、ここま で楚を強大にしたのは、春秋五覇のひとりに数えられる楚の荘王の力に 俟つ所が大きかった。この英主荘王をついで立ったのが、その子共王審 である。 ある時、共王は、狩猟に出かけて自分の弓を忘れて来てしまった。そ こで近侍たちが、 「お弓をとって参りましょう。」 と言うと、共王は、 「よいではないか、 楚の人間が忘れた弓を、楚の人間が拾うだけのこと、 (楚人弓を遺れ、楚人之を得) わざわざとりにいくことがあろうか!」 と答えた。このエピソードは、いかにも国君に適わしい腹の大きな話 として、後々まで語り伝えられたものらしい。共王の没後八年(BC.552) に生れた孔子も、誰かから、このエピソードを聞かされたが、すると孔 子は嘆じて、 「何と腹の小っぽけなことだ。 《人間が忘れた弓を、人間が拾うだけのこと》 (人弓を遺れ、人之を得) と言えばよかろうに。 どうして楚に限ることがあろうか!」 と言ったという。国家権力というものを持たなかった孔子には、国家 をこえて、《人間》としてあらゆる人間に接し得る自由闊達な心境があ ったのだ。これは、前漢の劉向の著わした歴史逸話集「説苑」にある話 だが、おそらく劉向は、自己を小さな限界に閉じ籠める《物欲》という ものからの脱却を薦めるエピソードとして、これを記したのであろう。
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