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大器晩成

作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-16 18:46:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 三国鼎立の時代、魏に崔エンという有名な武将がいた。崔エン、字は
李珪、山東省武城の人で、声といい、姿といい、おおようで大人の風格
があった。ひげの長さは四尺もあり、武帝の信任はなみなみならぬもの
があったというから、とにかく相当な人物だったらしい。
 
 ところで、この崔エンの従弟に林という者がいた。見掛けはあまり利
口そうでなかったためか、サッパリ名声が上らず、一族の者も馬鹿者あ
ついして、テンデ軽視していた。しかし崔エンだけは、さすがに、その
人物を見抜いていた。
 
 「大きな鐘や、大きな鼎は、
  容易に鋳られるものではない。
  それと同じように、
  大才能はそんなにたやすく出来上がるものでもない。
  完成するまでには、どうしても時間がかかる。
  林もこのように、大器晩成の組なのだろう。
  見ていなさい。
  ついには必ずや大した人物になるだろうから……。」
 
 その言葉の通り、林はのちに三公となり、天子を補佐する大任を果た
すような立派な人間になった。      (「三国志」魏志・崔エン伝)
 
 
 もう一つの話。後漢の初めごろ、扶風茂陵(陝西省)に馬援という武将
がいた。はじめは、前漢の天下をかすめとり、新という国を建てた王莽
につかえたが、王莽が死んでのちは、後漢の光武帝につかえ、しばしば
功を立て、伏波将軍に任ぜられた。伏波将軍とは前漢の武帝以来、大功
のあった将軍にのみ授けられる地位である。そしてインドシナなどの叛
乱を平らげ、各地に後漢の威光の及んだしるしの銅柱を建てた。晩年に
匈奴の烏桓を征伐するため出征したが、光武帝の建武二十五年、不幸に
して陣中に没した。時に齢六十三歳。この名将馬援がかつて兄の況の所
を辞し、田舎の田畝を司る官吏になって赴任しようとして、況のところ
へあいさつに行った。況はいった。
 
 「お前はいわゆる大器晩成型だ。
  腕の立つ大工は、
  山から切り出したばかりの、
  削ってない材木は決して人に見せないが、
  自分の好きなように細工してしまう。
  お前も自分の持ち味を生かし、
  時間をかければ大人物になるだろう。
  自重してやれ。」
 
 この忠告を守った馬援は、のちに果たして歴史に残る有名な人物とな
った。この話は「後漢書、馬援伝」に見えている。
 
 
 さらに「老子」には、
 
 《大方に隅無し、大器は晩成す》
               (大地には隅がない。大器は晩成する)
 
 という語がある。大人物は要するに、そんなに簡単に出来上るもので
はない。長い年月と、たゆまざる勉励によって、はじめて生れるもので
ある。物事はやはり長い目で見るべきである……というのが、この大器
晩成の趣旨である。
 
 
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