打印本文 关闭窗口 |
大道廃れて仁義あり
|
作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-16 18:47:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
|
「老子」の第十八章に出て来る言葉。大道とは老子が第一章で「道の道 とすべきは常の道にあらず」――およそこれが道だといわれている道は 永遠の道ではない――と言っている「常の道」のことである。 老子によれば永遠の道は自然の原理、ないしは自然そのもののことで ある。自然の中の一つの現象にすぎない人間も、永遠の道に支配されて いる。自然にはこれがよいということも、これがわるいということもな い。あるものがあるにすぎない。にもかかわらず、この人間が自分らの 行為について、これが正しい、これが正しくないと道徳的な価値判断を やり、その価値判断にとらわれることは永遠の道にさからい、自然にさ からうことである。だから仁義という価値判断が人々の口にことさらに 強く主張される時、それは人間が永遠の道を忘れ、あるいはみずから放 棄してしまった時だ、ということになる。人間は「大道が廃れる」と、自 分自身が自分の考えで作り出した道徳的価値判断により、他人を裁き世 の中を裁こうとする。仁義の尊ばれる時、それは世の乱れた時である。 人間に仁や義を強要したり、あるいは道徳的に教育しようとしたり、 また道徳的に他人をさばこうとしたりする思想や行動は、すべて人間本 来の自然をみずからの手で破壊することにすぎない。あるいはさらに敵 対者を作り、争乱を起すこととなる。人間にはなにほどかの道徳が必要 であろう。しかし道徳に絶対的な権威を与えることは、従って他人に道 徳を強要することは、やはり人間が自分自身を自分の手で破壊する行為 であろう。この関係を老子は「大道廃れて仁義あり」と逆説的な言い方を して表現した。たしかに人間と人間の歴史が時たま演ずる不自然な思い あがりを指摘した点で、この言葉は真理である。
|
打印本文 关闭窗口 |