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百聞は一見に如かず
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作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-16 19:00:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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漢の宣帝の神爵元年、西北のチベット系遊牧民の羌が、反乱を起こし た。これよりさき、羌の先零と言う一種族が、湟水の北で遊牧すること を許されていた。彼らが草を求めて南岸に現れたとき、鎮圧に来た漢の 将軍に、ふいに先零の主だった者千余人を殺害されたので、先零は怒り 他の羌を誘い漢軍を攻め、漢軍は大敗を期し退いた。この時漢の宣帝は 御史太夫丙吉を後将軍趙充国の元に遣わし、誰を討伐軍の将にしたらよ いか尋ねさせた。 趙充国は時に七十を越えていた。彼は現在の甘粛省天水市の人で、若 い時から対匈奴戦に従軍していた。 武帝のとき、弍師将軍李広利の配下として遠征した際、全軍が包囲さ れ、食も乏しく死傷者も多く出た。この時充国は兵百余兵を連れて突進 し、自ら全身に二十もの傷を受けながらも、包囲を破り全軍を救った。 このときの功績により、武帝から車騎将軍に任じられた。以来彼の対匈 奴・対羌の生涯がはじまる。 その人となりは沈勇で大略があり、下門を受けるに相応しい人物であ った。彼は質問に「老臣に優るものはありません」と答えた。 彼は召し出されて宣帝より更に尋ねられた。 「将軍が羌を討つとすれば、どんな計略を用いるのか? また、どれほどの兵を用いればよいのか?」 老将軍は答えて言う、 「百聞は一見に如かず。 およそ軍の事は実地を見ずに遠くからは計りがたいもの、 それゆえ願わくは金城群に赴き、 図面を引いて方策を奉りたく存じます。」 更にそう言って自分に任せて欲しい旨を述べた。宣帝は笑って「よろしい」と言ったという。(「漢書」趙充国伝) 「百聞は一見に如かず」というのは、ここに出て来るのが最初とされ る。おそらくは民間の諺でもあったのであろう。 西洋の諺にも「十の噂より見た証拠一つ」というのがある。
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