皇帝だけに開かれた門
中国の首都・北京から高速道路を5時間あまり走り、孔子のふるさと山東省曲阜に着いた。約2500年前、春秋戦国時代の激動の中を生きた孔子の里に高速道路が通じているのも歴史のなせる変化だ。
魯国の哀公が孔子の死亡した翌年、紀元前478年に、3部屋だけだった孔子の家を「孔廟(こうびょう)」として祭祀(さいし)の場にした。その後、修復と増築が繰り返され、現在は総面積2万平方メートル、466部屋を誇る観光名所となった。
孔廟を出て、隣の孔家の子孫が居住した邸宅「孔府」の内門・重光門に来た時、案内のガイド嬢が突然、興味深い話を披露し始めた。この門は皇帝の来訪時だけに開けられたという史実がミソだ。
「10年以上も前の話ですが、李鵬首相(当時)が来訪した時、(地元当局の幹部は)重光門を開けました。でも李氏は、ちょっとためらった末、門を通り抜けるのをやめました。別の機会に江沢民・総書記(同)も来訪したのですが、彼はアッという間にくぐり抜けました」
地元の歴史研究家、唐福玉さん(46)によると、建国の父、毛沢東以来、歴代の中国指導者で重光門をくぐり抜けた例はなかったという。
江氏は昨年2月、訪中した日本の与党政治家に、半年後には76歳を迎えると話したうえで、「『人生七十古来まれなり』というが、80歳もまれではなくなった」と切り出した。清代の乾隆帝が70歳になり「古希の説」を著した時、歴代皇帝の中で70歳に達したのは、わずか6人だった。乾隆帝は、皇女を孔家に嫁がせて孔家の姻戚(いんせき)となり、孔廟を通算8回訪れた。
祖父・康煕帝の在位61年を超えないよう、在位60年を迎えた1795年に、84歳で実子の嘉慶帝に帝位を譲ったが、自らは「太上皇」となり、死去までの3年あまり院政を敷いた。古希を持ち出した江氏の脳裏に乾隆帝の故事があったかどうかは定かでない。
孔廟や孔府には内外の国家指導者が多数訪れている。フランスのミッテラン氏は大統領に当選する3か月前の1981年2月、孔廟を訪れ、大成殿の雲竜石柱の脇に腰を下ろし、瞑想(めいそう)にふけった。北朝鮮の金日成主席は91年10月、孔子が使ったとされる井戸の前でたたずんだ。
毛沢東は新中国成立間もない52年10月、孔廟を訪問した。トウ小平は64年と91年の2回訪れた。文化大革命中に「批林批孔」運動が繰り広げられたように、孔子は政治にほんろうされ、建物や石碑のいたるところに、紅衛兵によって破壊された傷跡が見える。
改革開放時代に入って孔子は復活した。儒教は、「革命」よりも「統治」を重視する共産党政権にとっても公認の思想となった。
海外での研究も盛んだ。米ハーバード大学の杜維明・教授(63)(中国歴史・哲学)は、儒家思想が欧米社会で持つ意義についてこう語る。
「現代の西欧社会が過剰な個人主義、過度の競争、家庭崩壊の危機にある時、孔子には導きの言葉としての効用がある。社会の安定と長期発展、人と人とのつき合い方の道標となる。これが米欧の学界にとって驚きなのだ」
孔子の里は、国内の観光客だけでなく、世界の人々を魅了し続けている。
[論語] 孔子(紀元前551―同479)と門人たちの言行録。日本にも古くから伝わり、敗戦までは国民的な道徳教科書として重視された。「論」は「きちんと整理した言葉」の意で、「語」は「交互に話し合うこと、対話」。「論語」は対話を順序正しく整理したという意味。「啓発」「遠慮」「利口」「温故知新」など日本でもよく知られる言葉の多くが論語に由来している。 | |