ピアニスト 西村 由紀江 さん コンサートで1年に国内外約60か所を訪れる。リハーサルなどの準備を含めると、年間3分の1は東京の自宅から離れている。その旅暮らしを支えるのは、本物そっくりの携帯鍵盤(けんばん)だ。「自由に使えるピアノがいつも用意されているとは限りません。1日練習をさぼると、取り戻すのに3日かかると言われるんですが、これさえあれば何の心配もありません」 折り畳んであるのを開いて、目の前で弾いてもらった。通常のピアノと同様、白黒88の鍵盤がそろっている。しかし、耳を澄ましても音は聞こえてこない。「弾いていると私の頭の中で響いていますから、困らないんです」という言葉に驚いた。
手に入れたのは大学卒業直後。オーストリア留学を目指した“受験生”の時だった。実技試験があったが、受験生が多くて現地ではレッスンの部屋が取れない。普段と同じように練習できないかと、家に来ていた調律師に相談して、携帯鍵盤のことを知った。
市販品でないため、中古のピアノが買えるほどの値段だった。でも、これのおかげで、試験に合格できたと思っている。以来、約5キロという重さも気にならず持ち歩いている。学生時代に避けていた海外演奏旅行が平気になったのも、この相棒といっしょだから。
ただし、飛行機内に持ち込む際、X線検査で不審物扱いされ、説明するのに苦労したこともあった。また、せっかく持ってきたのに、ホテルに鍵盤を置ける机がないことも。「そんなときはベッドに置き、ぺたんと床に座り込んで弾くんです。行儀よくないけど」
身近に置いて使い続け、十数年たつと、弾いているだけで自分の体調まで映し出す。「早く弾いてしまうときは気持ちがはやっているとき。そんなときは忘れ物がないか確認しようと。鍵盤のタッチが重たいときは、風邪をひくまえぶれ。結構当たりますよ」
鍵盤に導かれるように、世界が広がっていった。これからも旅生活を支え、新たなメロディーを生み出していくことだろう。(崎長 敬志)
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