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「お年玉」という言葉には、いつまでたっても心をくすぐられる。懐が痛む立場になっていておかしくないのだが、幸か不幸か、いまだに独り身。とはいえ、頂戴(ちょうだい)できる年齢でもない。ところが、まだもらえる場所があった。香港である。
「ここのお年玉は『利是(ライシー)』といって、年齢問わず既婚者が未婚者に配るんです。正月のあいさつをする度ですから大変ですよ」。苦笑まじりに話すのは、ガイドをお願いした辻村哲郎さん(44)だ。香港在住22年、この風習に従っているという。
配る側には気の毒だが、何ともうらやましい。もっとも、香港の人たちが祝うのは旧正月だから、今年は2月1日から。残念ながら、お年玉はあきらめるとしよう。
気を取り直して街に繰り出すと、いきなり、頭上を覆う原色の看板群に面食らった。九竜半島最南端の尖沙咀(チムサアチョイ)。香港随一の繁華街の名物とはいえ、やはり目の当たりにすると圧倒される。およそ秩序などなく、歩道を越え車道までせり出すのは当たり前。その下を人も車も平然と行き交う。
路地へ足を踏み入れれば、古びた高層アパートの1階にある大衆食堂から威勢のいい広東語が飛び出してくる。見上げれば、おびただしい数の洗濯物。わい雑だが、庶民の活気が伝わってくる。
そんな街を歩いていると、思わぬものに出くわした。
「有出前一丁(出前一丁あります)」。大衆食堂の店頭に掲げたメニューに、紛れもない日本の即席めんの商品名が。
日本では6種類しかないこの商品。香港では、57種類も発売されているという。食料品店をのぞけば、「XO醤海鮮風味」「紅焼牛肉風味」など、見慣れないパッケージがずらり。さすがはグルメの街と、妙に納得してしまった。
香港での日本人の足跡は意外と早くから残っている。アヘン戦争で中国がこの地を英国に割譲したのは、1842年。その3年後には、漂流漁民が日本人として初めて定住している。その後、渡航者が増えていくわけだが、中には明治以降、貧しさゆえに身を売らなければならなかった「からゆきさん」もいた。
彼女らの墓が残っていると、教えてくれたのは地元の歴史研究家、高添強(コウテンキョウ)さん(38)だった。
「1878―1945年に亡くなった、日本人465人が眠る墓地があります。その8割が、からゆきさんや船員だと言われているんですよ」
高さんが言う香港墳場は、日本人観光客にも人気のあるハッピーバレー競馬場の西側斜面にあった。7万平方メートル近い広大な敷地。英国人ら約2万人が眠り、その最奥の1番高い一画に、日本人たちが葬られていた。
ビクトリア湾沿いの摩天楼も一望できる見晴らしの良い場所だが、街の喧騒(けんそう)は届かない。大小様々な墓石は、ひっそりとたたずむ。
1884年に30歳で亡くなった長崎県出身の女性の墓石の台座には、「タイ、キク、トメ……」。墓を建立した人だろうか、墓碑銘とは別の何人もの女性の名が刻まれている。整理番号だけ記された無縁仏らしい墓もある。これらが、からゆきさんなのだろう。
この墓地も大戦後は管理者もなく、荒れ放題になっていた。それに心を痛め整備したのは、在留邦人の親ぼく団体・香港日本人倶楽部のメンバーらだった。草をきれいに刈り取り、墓石を修復。2000年からは慰霊祭も営んでいる。
「帰る当てもなく、異国で散ったのは、さぞ無念だったでしょう。そんな名もない人たちの身元が明らかになり、1人でも多くの縁者が見つかればと願っています」と、同倶楽部事務局長の福光博一さん(58)は語る。
日本人が刻んだ悲しい歴史。そこに埋もれた人々を思いやる温かさに触れた。
それが、香港でもらったお年玉に思えた。 | |