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羮に懲りて膾を吹く
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作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-13 18:54:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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楚の屈原は古代の中国が生んだ情熱的な詩人で、彼の詩は、今日なお 『楚辞』にその悲憤の調べを伝えているが、しかし彼は詩人であるより も、国を愛し正義を愛する人間としてまず生きたのであった。 戦国の末近いこの時代は、秦が勢威を振るっていて、これに対抗でき るのは楚と斉の二国ぐらいなものだったから、秦は、楚と斉の結びつき を絶えず気にしていた。屈原は親斉派の領袖として楚・斉同盟を強化す るよう献言し、楚の懐王もはじめはこの立場をとっていたのである。と ころが懐王の寵姫の鄭袖や、佞臣・キン尚などは、かねてから三閭大夫 (その王族の昭氏・屈氏・景氏の族長)の屈原を疎ましく思っていた。 そこへつけ込んだのが、時の秦の相・張儀である。彼は鄭袖らを買収し て親秦派とし、その結果キン尚達がおきまりの讒言をして、屈原を国政 から遠ざけてしまったのだ。屈原が三十一歳の時であった。悲劇はここ に起こった。 この時懐王は、斉と絶交すれば、その代償として秦の六百里の土地を 与えると張儀に言われ、その通り斉と絶交したのだが、これが張儀の真 っ赤な嘘とわかり、大いに怒った懐王は、ただちに秦を攻撃したのであ る。ところが、かえって秦に破られて土地を奪われ、そのため後悔した 懐王は、再び屈原を用いて斉への親善使節とした。 その後十余年の月日がたつ。周の赧王十六年のことであった。秦は両 国相互の為と称して、秦の土地へ懐王を招いたが、屈原は秦のやり方は 信用が出来ないと言って、これをとどめようとした。しかし懐王は、王 子の子蘭の強っての勧めで出かけて行き、果たして秦の虜となって、そ の翌年秦に客死してしまった。 楚では太子が襄王となり、弟の子蘭が令尹(宰相)となった。屈原は 懐王を死に至らしめた子蘭の責任を問うたが、それは逆に讒言される結 果となって、今度こそ本当に追放された。彼にとって悲劇は決定的とな った。時に四十六歳であった。 かくて十年余の間、祖国愛に燃える屈原は、国外へ亡命することもな く洞庭湖のあたりをさまよい、ついに憂憤のあまり汨羅(洞庭湖の南、 湘水に入る川)で入水して果てるまで、憂愁に満ちた放浪を続けたので ある。『楚辞』にある彼の作品の大部分は、この放浪生活の所産である と言ってよい。 彼は常に危機にある楚を憂え、祖国を誤らす佞臣を憎み、彼の堅持し た孤高の心情を熱情的に歌った。あるいは彼の詩の背後には、郭沫若氏 の描く史劇「屈原」のように、「苦しみ慨く人民」の姿があったのかも 知れない。その高く節操を持した屈原の片鱗は、次の詩にも見える。 熱羮に懲りて韲を吹く、 何ぞ此の志を変ぜらんや。 階を釈てて天に登らんと欲す、 なおさきの態あるなり。 (あつものに懲りてあえものを吹くは、 世の人のよわきさがなり。 われひとり天にも登る心もて、 守りこしみさおぞ変えじ。) これは、『楚辞』の「九章」中の「惜誦」と題する詩の一節である。 「惜誦」は、屈原が彼以上に「君」を思い忠誠を誓う士のいないことを 歌い、にもかかわらず衆人に疎外されたことを憤り、更にどうしょうも ない孤独を慨きながらも、その節操だけは変えないという、慷慨の心を 吐露した詩である。なお、彼の代表作には「離騒」や「天問」がある。 「羮に懲りて膾を吹く」という語は、この「熱羮に懲りて韲を吹く」 から出たもので、羮は熱い汁、膾は細かく切った生肉、韲は酢や醤油で 和える細かに切った野菜、膾も韲も冷菜だ。従って「一度失敗したのに 懲りて度の過ぎた用心をすること」を意味する。
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