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一網打尽

作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-13 18:56:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

宋の太祖から四代目は仁宗皇帝、北には契丹が頑張っており、南では
永く中国の一部だった安南が独立、宋建国以来の外征はいつも失敗し、
仁宗の対外政策も、専らこれらの国を懐柔する軟弱外交に終始したが、
内治においては見るべきものが少なくなかった。
 
 帝は性恭倹、よく民を愛し、賢才を登用し、学術を奨励したので、軍
備こそ整わなかったが、賢能の士が朝野に満ち、国はよく治まり、漢の
文帝とともに仁君として代表的な人である。当時の名臣としては韓琦・
范仲淹・欧陽脩・司馬光・周敦頤・張載・程顥・程頤など、いまに名の
残る立派な人がいて、帝を補佐した。世にこれを「慶暦の治」という。
 
 しかしそれだけに、朝議に名論卓絶が出過ぎて、まとまりがつかず、
その果ては廷臣が党派を組んで対抗し、両党が交替して政権を握るとい
う、いまの政党政治の見本を作った。このため、二十年間に内閣が十七
回も変わったというから、どこかの国に似ていないこともない。世にこ
れを「慶暦の党議」と称して驚いている。
 
 さて、帝は精励恪勤、毎朝、御座所に出るたびに必ず、「世はうまく
治まっているか」と問いただしたのち、帝の蔵書庫を開いて大臣を召し
た。これには学者を持って鳴らした仲淹らも恐れ入るばかりであった。
 
 間もなく杜衍が首相になった。当時の習慣として、帝が大臣たちに相
談せず、勝手に恩詔を下すことが行われていた。これを内降という。と
ころが首相になった衍は、こういう習慣は政道を乱すものとして嫌い、
内降があっても自分の所で握りつぶし、恩詔の詔旨が十幾つたまると、
そのまま帝のところへ還していた。
 
 帝はあるとき欧陽脩に言った。
  「朕が大臣たちに相談せずに、恩詔を下しても、首相の衍が
   握りつぶしてしまうことを、みんな知っているだろうか。
   朕の所へ恩詔を下してもらいたいといって来る者は多いが、
   どうせ首相の衍が握りつぶしてしまうんだから、出しても
   しょうがないといって、あきらめさせることにしているが、
   その数は、衍が握りつぶす数より多い。」
 
 衍のこの行いは、聖旨を勝手に曲げるものとして、宮廷の内外から非
難された。
 
 たまたま衍のむこの蘇舜欽が官吏となり、公金を流用して神を祀り、
客をもてなした。「しめた」と思ったのは御史の長官王拱辰、平素から
衍のやり方を、にがにがしく思っていた矢先なので、これで衍をおとし
いれてやろうと、舜らを獄に投じて、厳しく調べ上げ、数人を罪に落と
した。拱辰は横手を打って喜んで言った。
 
「吾、一網打尽せり」
 
 こんな事件のため、さすがの衍もついにわずか七十日で、首相をやめ
なければならなくなった。(『宋史』仁宋紀、「十八史略」)
 
 どこの国、いつの世でも、やり過ぎると、思わぬアナを掘られるもの
だ。適当にやるというのが官吏の保身の秘訣らしい。
 
 
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