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臥薪嘗胆
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作者:未知 文章来源:日本ネット 点击数 更新时间:2004-11-13 19:10:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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周の敬王の二十四年、呉王闔廬は越王勾践と〓李(すいり)で戦い、 越の軍略にかかって敗れた。その時、闔廬は敵の矢に指を傷つけられ たが、敗走の軍の中で十分な手当も出来ないまま、漸く※(けい)とい う所にまで逃れたとき、俄にその傷が悪化して死んだ。臨終のとき彼 は太子の夫差に、必ず越に復讐して自分の無念を晴らすようにと遺命 した。 父の跡を継いで呉王となった夫差の耳には、常にその父の遺命が聞 こえた。眼には常に臨終の父の無念の形相が見えた。彼は、どうして も父の怨みを晴らさずにおかないという固い決意で、夜な夜な薪の上 に臥して、父の遺恨を新たにしては復讐の心を研ぎ澄ました。更にま た彼は、自分の部屋に出入りする者には必ず父の遺命を叫ばした。 「夫差よ、お前の父を殺したのは、越王勾践であることを忘れてはな らぬぞ!」 「はい、決して忘れません。三年以内には必ず仇をとります!」 夫差はその都度、こう答えた。それは彼が臨終の父に答えたのと同 じ言葉であった。こうして彼は日夜、復讐を誓い、ひたすら兵を訓練 して時の来るのを待った。 越王勾践はそれを知ると、機先を制して呉を討とうとし、その良臣 范蠡の諫めも聞かず兵を起こした。夫差は直ちにこれを迎え撃ち、両 軍は呉の夫椒山で激突したが、夫差の激しい復讐の念に鍛え上げられ た呉軍によって越軍は大敗し、勾践は敗残の兵を率いてようやく会稽 山に逃れた。 呉軍は追撃してその山を囲んだ。進退窮まった勾践は、国を捨てて 呉王の臣となるという条件で降伏を願い出た。奮戦して死ぬことはむ しろ易い、しかし死ねばそれまでである。越の国を再び興すためには 生きて恥を忍ぶよりほかない、という范蠡の忠言に従ったのである。 越王勾践を降した呉王夫差は、勝者の襟度をもって勾践を許した。 勾践は故国へ帰ることはできたが、その国は今は呉の属領であり、自 らは呉王の臣下たる身である。かつては夫差が薪の上に臥して亡父の 遺恨を思い返したように、今、勾践は、常に傍らに肝を備え、坐臥す るにも飲食にもいつもその苦い味を嘗めて、「会稽の恥」を思い返し 復讐の念を刺激した。彼はまた自ら耕作し、夫人は自ら機を織り、粗 衣粗食に甘んじ、よく人を用い、その忠言を聞き、常に心をみなぎら せて苦難に耐え、ひたすら国力の再興をはかった。 だが、その復讐は容易には遂げられなかった。勾践が会稽山で呉に 降ってから十二年たった年の春、呉王夫差は杞の黄池に諸侯を会して 天下に覇を唱えた。夫差は得意の絶頂にあった。そのとき、それまで 久しく隠忍自重していた勾践は、范蠡とともに、夫差の不在を狙って 一挙に呉に攻め入った。勾践は大いに呉の残留軍を破ったが、なお決 定的な打撃を与えることはできなかった。 その後四年、勾践はまた呉を攻めた。笠沢で越軍は呉軍に大勝し、 そのまま兵を呉にとどめて各地で呉軍を敗走させた。そして二年後、 再び笠沢に集結した越軍は、呉の首都姑蘇に迫り、翌年、ついに呉王 夫差を姑蘇城に囲んで呉を降した。 ようやく会稽の恥をすすぎ得た勾践は、夫差を甬東の地に流し、そ こで余生を送らせようとしたが、夫差は勾践の好意を断わって潔く自 ら首をはねて死んだ。 勾践は更に軍を北に進めて淮河を渡り、斉・晉の諸侯と徐州に会し、 呉に代わって天下の覇者となった。(「十八史略」「史記」越世家) 復讐の心をいだき、常にそのことを思って辛苦することを「臥薪嘗 胆」というのは、この呉王夫差と越王勾践とのそれぞれの故事に基づ いたものである。また、呉と越とが互いに仇敵視しあったことから、 極めて仲の悪いことを「呉越の思い」、或いは単に「呉越」という。 注)〓李は《すいり》で、〓は木に雋。 注)※は《けい》で、こざとへんに坙。
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