上海市内を静かに流れる蘇州河に面した「内外綿第7工場」跡地は、うずたかく積まれたゴミに埋もれ、ガラス戸のうち砕かれたレンガ作りの倉庫が残るだけの無残な姿をさらしていた。
小説「上海」は、大規模排日運動「五・三〇事件」が発生した1925年当時の上海を描く。排日運動の発火点となったのが、日本資本の紡績工場「内外綿第7工場」だった。
「残った工場施設が取り壊されるのは時間の問題。間もなく立派なマンションでも建つさ」。内外綿第7工場の跡地にはその後、中国の国有工場が建てられた。この工場に勤務していた元工員(49)は、歴史的事件に思いをはせる様子もなく、淡々と語るだけだ。
国有工場にも70年代には約6000人の工員が働いていた。90年代に入ってからは、発展し続ける民間企業に圧迫され、経営が悪化し、98年には事実上、閉鎖となった。この元工員も同年に一時帰休労働者となり、現在は隣接するホテルの臨時警備員の手当700元(約1万1000円)で家族3人の生計を支えている。
廃虚となった工場跡近くでは、数十棟に及ぶ高層マンションの建設が進んでいる。分譲予定価格は約70万元。元工員の年収の実に80年分以上に相当する。購入主は、外資系企業や金融関連企業など民間企業で働く“新中間層”だといわれている。
日本、英国、フランスなど列強諸国が進出、特権的居留地域・租界を形成し、繁栄を極めた1920年代の上海。街の魅力にとりつかれ、小説の主人公・参木(さんき)はこの地で生活するようになった。
参木の耳をつんざく工場機械の大音響は、当時の上海の繁栄を支える外国資本の象徴でもあり、貧困層の底辺からの叫びでもあった。
待遇改善を求めて運動を展開していた内外綿第7工場の中国人工員が、工場側の発砲で殺害されたことが「五・三〇事件」の引き金だった。やがて、外国資本全体に対する抗議活動に発展。工場から目抜き通りの南京路には数千人の市民が繰り出しデモ行進を行い、これに英国の警察隊が発砲、20人近くの市民の命を奪った。市内では約20万人が参加した空前の規模のストライキが行われた。
横光は中国共産党員や軍閥、各国のスパイも絡ませてこの事件を臨場感を持って描いた。横光自身も、事件後3年が経過した28年に上海に約1か月間滞在している。そこで、見聞きしたことをもとに事件を舞台とした小説に仕上げた。
上海社会科学院歴史研究所の陳祖恩・助教授(上海史)は、「事件の詳細を視覚的に描写しているだけでなく、事件当時の市内の生活風景や、上海に住む日本人の中国に対する見方を知る上でも歴史的価値のある小説だ」と評価する。
小説の中で参木が心を寄せた共産党の女性闘士・芳秋蘭は、「中国の資本主義より、外国の資本主義を恐れなければならない」と述べ、外国資本への敵意をむき出しにする。事件から約80年が経過した現在の上海は、外資系企業約2万5000社が活動し、急速な経済発展の牽引(けんいん)力となっている。昨年12月に世界貿易機関(WTO)に加盟し、世界市場に本格的に参画するようになった中国にとって、再び貧困や失業が社会問題として浮上しつつある。内外綿第7工場の労働者が、待遇改善を求めて立ち上がった当時と同様の社会的な揺らぎが、底辺で始まっていてもおかしくないかもしれない。そう考えると、芳秋蘭の言葉には、現代にも通じる響きが込められているような気がした。