十二国記シリーズ 風の海 迷宮の岸
小野不由美
説明
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------------------------------------------------------- 風の海 迷宮の岸(上) 十二国記
ブロローグ
雪が降っていた。 重い大きな|雪片《せっぺん》が沈むように降りしきっていた。 天を見あげれば空は白、そこに灰色の薄い影が無数ににじむ。|染《し》みいる速度で視野を横切り、目線で追うといつの間にか白い。 彼は肩に軟着陸したひとひらを見る。|綿毛《わたげ》のような結晶が見えるほど、大きく重い雪だった。次から次へ、肩から|腕《うで》へ、そうして真っ赤になった|掌《てのひら》にとまっては、水の色に|透《す》けて|溶《と》けていく。 雪の白よりも、彼の|吐息《といき》のほうが寒々しかった。子供特有の細い首をめぐらせると、動作のとおりに白く吐息が動きを見せて、それがいっそう目に寒い。 彼がそこに立ってもう一時間が過ぎた。 小さな手もむきだしの|膝《ひざ》も、|熟《う》れたように赤くなってすでに感覚が無い。さすっても抱きこんでも冷たいばかりで、それでいつのまにかぼんやりとただ立っていた。 北の中庭だった。 |狭《せま》い庭の|隅《すみ》には使われてなくなって久しい倉が建っている。|土壁《つちかべ》に入った|亀裂《きれつ》が寒々しい。 三方を|母屋《おもや》と倉に、もう一方を|土塀《どべい》に囲まれていたが、風の無いただ寒いばかりのこの時には、ほとんど恩恵をもたらさなかった。 庭木と呼べるほどの樹木もない。夏が近くなればシャガの花が咲いたが、いまはむきだしの地面が白くまだらに染まっているだけだった。 (|強情《ごうじょう》な子やね) 祖母は関西から|嫁《とつ》いできた。いまも故郷のなまりが消えない。 (泣くくらいやったら|可愛《かわい》げもあるのに) (お義母《かあ》さん。そんな、きつく言わなくても) (あんたらが甘やかすし、いこじな子になるんやわ) (でも) (近頃の若いもんは子供のきげんを取るしあかん。子供は|厳《きび》しいくらいでちょうどよろし) (でも、お義母さん、|風邪《かぜ》をひいたら) (子供がこれくらいの雪で|風邪《かぜ》なんかひくわけないわ。──ええね、|正直《しょうじき》に|謝《あやま》るまで、おうちの中には入れへんかららね) 彼はただ立ちつくしている。 そもそもは、洗面所の床に水をこぼしてふかなかったのは誰かという、そんな|些細《ささい》な問題だった。 弟は彼だと言い、彼は自分ではない、と言った。 彼にはまったく身に覚えがなかったので、そう正直に言ったまでのことだ。彼は常々祖母から、|嘘《うそ》をつくのはもっともいけないことだとしつけられてきたので、自分が犯人だと嘘をつくことはできなかった。 (正直に言うて謝ればすむことでしょう) 祖母が激しく言うので、彼は自分ではないとくりかえすしかなかった。 (あんたやなかったら、誰やの) 犯人を知らなかったので、知らないと答えた。そうとしか返答のしようがなかった。 (どうしてこんなに強情なんやろね) ずっと言われつづけていることではあるし、彼は幼いなりに自分が強情なのだと|納得《なっとく》していた。「強情」という言葉の意味を正確に知るわけではないが、自分は「強情」な子供で、だから祖母は自分を|嫌《きら》いなのだと、そう納得していた。 涙が出なかったのは|困惑《こんわく》していたからだった。 祖母は謝罪の言葉を求めているが、謝罪すれば祖母がもっとも嫌う嘘をつくことになる。どうしていいかわからなくて、彼はただ途方にくれていた。 彼の目の前には|廊下《ろうか》が横に伸びていた。廊下の大きなガラスの向こうは茶の間の|障子《しょうじ》。半分だけガラスが入ったそこから、茶の間の中で祖母と母とが言い争いをしているのが見えた。 ふたりが|喧嘩《けんか》をするのはせつない。いつも必ず母が負けて、決まって風呂場の|掃除《そうじ》に行く。そこでこっそり母が泣くのを知っていた。 ──お母さん、また、泣くのかなぁ。 そんなことを考えて、ぼんやりと立っている。 少しずつ足が|痺《しび》れてきた。片足に体重をのせると、|膝《ひざ》がきしきし痛んだ。足先は感覚がない。それでも無理に動かしてみると、冷たい|鋭利《えいり》な痛みが走った。膝で|溶《と》けた雪が冷たい水滴になって、|脛《すね》へ流れていくのがわかった。 彼が子供なりに重い|溜《た》め|息《いき》をついたときだった。 ふいに首筋に風が当たった。すかすかするような冷たい風でなく、ひどく暖かい風だった。 彼はあたりを見まわした。誰かが彼をあわれんで、戸を開けてくれたのだろうと思ったからだ。 しかしながら、見まわしてみても、どの窓もぴったり閉ざされたままだった。|廊下《ろうか》ではなく部屋に面したガラスは、さも暖かげにくもっている。 首をかしげて、もういちどあたりを見まわす。暖かな空気はいまも彼のほうに流れてきていた。 彼は倉の脇まで目をやって、それからきょとんと|瞬《まばた》きした。 倉と|土塀《どべい》の間のごくわずかの|隙間《すきま》から、白いものが伸びていた。 それは人の|腕《うで》に見えた。二の腕の上のほうまで素肌をむきだしにした白いふっくりとした腕が、倉のかげからさしだされているのだった。 腕の主の姿は見えない。おそらく倉のかげに|隠《かく》れているのだろうと、彼は思った。 ひどく|不思議《ふしぎ》な気がした。 倉と塀のあいだにはほんのわずかな隙間しかない。せまい隙間に落ちこんだ野球ボールが取れなくて、弟が泣いたのは昨日のことだ。見たところ|大人《おとな》の腕のようだが、いったいどうやってあの隙間に入っているのだろう。 腕は|肘《ひじ》から下を泳がせるようにして動かしていた。それが手招きしているのだと|悟《さと》って、彼は足を|踏《ふ》みだす。|凍《こご》えて|痺《しび》れた|膝《ひざ》が、音がしないのが不思議なほどぎくしゃくした。 |怯《おび》える気になれなかったのは、暖かい空気がその方角から流れてくるのに気づいたからだった。 彼はほんとうに寒かったし、本当にどうしていいかわからなかったので呼ばれるままに歩いた。 雪はすでに地面をおおって、彼の小さな足跡を残すほどになっている。 白かった空は|墨《すみ》をぼかしたように色を変えている。 短い冬の日が|暮《く》れようとしていた。
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