◆天下の夢 静かに眠る
春風が紅色の花をつけた梅の枝を揺らしている。四川省成都にある「武侯祠(ぶこうし)」は今、うららかな春の陽気だ。
「武侯」は、三国志演義の最大のスター、諸葛孔明のおくり名。武侯祠とは、孔明を祭った廟(びょう)だ。成都武侯祠がいつ建立されたか定かではないが、唐代にはすでに有名だったらしく、杜甫も詩に詠んでいる。時代が下って明代に、三国志の主人公、劉備を祭る廟、劉備の墓「恵陵」と統合され、現在の姿となった。正式には「漢昭烈廟」で、劉備を祭る廟の意味だが、なぜか武侯祠と呼びならわされる。広さは5万5000平方メートル。
入り口の朱塗りの門をくぐり、石畳を歩むと、まず、劉備殿(正殿)に突き当たる。口ひげを垂直に胸まで垂らし、両手で笏(しゃく)を持った劉備の巨大な塑像が鎮座している。左殿に張飛、右殿に関羽と、義兄弟の像が脇を固める。両側の回廊に趙雲、馬超ら豪傑、忠臣たちの像28体がある。
正殿を過ぎ、再び石畳を進むと、孔明殿に至る。孔明の像は軍師の象徴、羽根の扇を手にしていた。
天下三分――。孔明の構想に従って、劉備は現在の四川省に当たる「蜀」の乗っ取りを図る。蜀の都、成都を攻略したのは、今をさかのぼる1790年前、214年の夏。ここで初めて、蜀漢の劉備が、魏の曹操、呉の孫権と鼎立(ていりつ)する。
「蜀を手に入れて、まず天下を三分する孔明の構想は科学的で正しかった」と、三国志演義を22年も研究する沈伯俊・四川省社会科学院文学研究所長は言う。
蜀は、西にチベット高原が迫り、北東に大巴山脈、南東に武陵山脈、南に雲貴高原を望む天然の要害である。夏の高温多雨が豊かな穀倉地帯を形成し、養蚕が古くから発達した。絹糸を精巧に織り上げる蜀錦(しょくきん)が漢代に発達し、豊かな経済力をはぐくんだ。天下をうかがう劉備には絶好の根拠地だった。
三国志演義で、読者が胸躍らせるのは、孔明が戦場で繰り出す奇策の数々だ。だが、実際の孔明はそうではなかったらしい。「劉備の存命中、孔明が直接指揮した戦いは数少ない」(沈所長)。孔明はむしろ、魏や呉との外交交渉にたけた政治家であり、徴税や軍隊管理がたくみな行政官だった。
武侯祠で、孔明殿を西に折れて歩くと、朱塗りの高い壁に挟まれた小道がある。ここを通り抜けると、劉備の墓「恵陵」だ。直径20メートル程度の円墳は、雑木林に覆われた小山だ。劉備は223年4月に陣中で没し、8月、ここに葬られたと言われる。
劉備の子、暗愚で有名な劉禅が後を継ぐ。孔明は、これを補佐して天下を目指すが234年、病が高じ、五丈原に陣没する。その約30年後、三方から蜀に攻め入った魏軍に、劉禅は恐れおののいて戦わずに下り、蜀は三国の中で最初に滅ぶ。
劉備とそれを取り巻く英雄、豪傑、天才、凡人たちが、体力と知力と勇気と忍耐の限りを尽くして求めた漢による天下再統一の夢は、あっさりと砕け散った。
魏に下ったのちも、享楽の日々を過ごした劉禅。成都武侯祠を歩き、どこを探しても、その塑像を見つけることはできない。(文と写真 東 一真)
三国志演義 元の末期から明の初期にかけて活躍した文学者・羅貫中が、史実を基に創作した小説。日本では元禄時代に翻訳され、庶民の人気を博した。現在も複数の出版社が翻訳・出版している。史実に基づくフィクションの「演義」とは別に、晋代の官吏、陳寿の手になる正史の「三国志」があり、これは魏志、呉志、蜀志の3つからなる。正史は魏を正統王朝と規定している。