您现在的位置: 贯通日本 >> 文学 >> 贯通文学 >> 正文

初恋

作者:kavin  来源:本站原创   更新:2004-5-15 20:19:00  点击:  切换到繁體中文

 

大学二年のとき、日本人の先生が島崎藤村の「初恋」を教えてくれました。先生は 初恋(村崎藤村) まだあげ初めし前髪の りごのもとに見えしとき…… と黒板に大きく書きました。そして先生は「まだあげそめし……」と美しい声でその詩を読み、解説をしてくれました。私はその良く響く声を聴きながら高校時代のことを思い出しました。 
 ある日の夕方、私は学校に戻るのが遅くなり、夜の自習に間に合うように、バス停か降りると学校まで走りました。焦っているためか正門のところで男の人にぶつかってしまいました。彼は持っていたりんごを落としました。りんごが道に転がるのを見ながら、焦っていたので私は何もいわずに逃げてしましました。 
 何日か経った日の一時間目は日本語の授業でした。先生は一人の男の人を連れてきました。背が高くて鼻が高いし、目はちょっと窪んで大きな黒い縁の眼鏡をかけ、紺色のスーツを着た人でした。どこかで会ったような気がしました。(あ、この前、正門でぶつかったあの人……いったい何をしに来たのか)私は頭を低くして、彼に見えないようにこっそり覗きました。しかし、彼の視線にぶつかって彼はにっこり笑いました。私はもっと不安になりました。先生の紹介で私たちの実習の先生だと分かりました。みんなこそこそささやいていると、「私は李と申します。遼寧師範大学の日本語科の四年生で、今度、約二ヶ月間みんなと一緒に勉強することになりました。よろしくお願いします。」と魅力的な声のしかも上手い日本語が驚きました。教室はシーンと静かになりました。羨ましい視線と言うか、憧れの視線と言うか、とにかくみんなが彼を注目していました。私は先日の失礼を恥ずかしく想い、どうしてよいか分からなくなりました。…… 
 「……前にさしたる花櫛の 花ある君と君と思ひけり……」 
藤村の詩の授業は続いていました。 
 それから二ヶ月間、彼は日本の風習や、日本に関することを知ってる限り教えてくれました。友人たちは暇な時には、彼と大学での生活をあれこれ話し合ったりしましたが、私は以前のことが気にかかって行けませんでした。 
 いよいよ明日は最後の授業という日でした。私は思い切ってりんごを少し買って彼のところへ行き、正門での失礼を謝りました。彼はにこにこ笑いながら、何も言わず、私の持ってきたりんごを一個私にくれました。 
「……やさしく白き手をのべてりんごをわれにあたへしはうす赤の秋の実 人こひ初めしはじめなり」 
日本人の先生が教えてくれた藤村の詩が私に高校時代のことを思い出させてくれ、私に初恋ということを教えてくれたのです。 
中国で生きる日本
 きれいな桜の花が咲く日本へ、すき焼きと刺身の美味しい日本へ、温泉で有名な日本へ、一度だけでもいいからぜひ行ってみたい。日本と関係のあることならば、好奇心いっぱいになる私。 
 こんな私は、家でも日本の食べ物を作り、日本のドラマを見ている。鈴木保奈美、三上博史、竹野内豊、木村拓哉、豊川悦司、みんな私の好きなタレントである。ドラマだけではない、漫画も、映画もいい。 
 こういう私はWANDSの歌を歌いながら街を歩いている。太原街の外交書店まで歩いてきた。かわいそうに、外交書店と言っても、英語の本ばかり。日本語の書籍というのは、五十個以上もある本棚の中で二個しか占めていない。やはり、吉川先生(日本人教師)の本棚が豊である。 
 仕方がないので中街に出た。漢字だからの中国の街で、ひらがなやカタカナの入った日本語が商品に書かれていると、目を奪われ、懐かしい気分になる。そして、目がテンとなる。両袖に日本語で「スモールワンポイントが効いている」とデカデカと書かれたトレーナーを着た女の子が街を歩いていく。姿が見えなくなるまで見送ってしまった。 
 「Panasonic」と大きく書いた安っぽい「ガラス台」が、露天で売られている。本家が見たら泣くだろう。 
 「よかトレ商品」とパッケージに書かれた料理器具。なんのこっちゃ。 
 「つまよろじ」と書かれた袋の中身は、実は「つまようじ」である。 
 「江崎グリコ」の「ペットシュガー」という名の袋菓子がある。まさか日本で流行ってはいまい。 
 先進国、日本の商品は「高品質」「最先端」といったイメージがあるらしく、あちこちで日本語を使った、理解不可能な「こまったちゃん」がお目にかかる。 
 ある日、駅の売店で、なんと90パーセント誤字脱字の「日本語会話テキスト」を発見。 
 「ねんげんきぞすか」なんのことかと思ったら、これは「おげんきですか」の意味である。 
 「さうごす。」は、「そうです」のことである。 
 「ねんなのいで」は、「おんなのひと」など、とても解読できない日本語訳だらけなのだ。 
 今、中国は外国語ブームで、日本語は、英語に次いで人気ナンバー2とか。これをまじめに暗記してしまう中国人の末路を想像すると、あまりに悲しく、ちょっとコワイ。 
  
平成十一年三月十六日 文女 
日中友好を深める為に何をすればいいか 
―友好を深めるよりまず本当の友好を成立しよう― 
 去年、突然祖父が亡くなった。生前すごく私を可愛がってくれた祖父は私が大学に入ってからは怒って目もくれなくなった。それは6人の孫の中でただ一人の大学生の私が、いちずに日本語を専攻しているからである。祖父は若いとき、日本との戦争に10年間も出ていた。だから、日本に対する憎悪感が深かった。それが私の日本語科進学を心の底から許さなかったのだ。 
 祖父が戦争で苦労したことは私もずっと前から知っていた。でも私は中学時代から日本語だけはクラスでトップで、99点の成績で高校に進学できた。それが励みになってもし大学に入れば、日本語を続けて学びたいと心に決めていたのだ。 
 祖父に「おめでとう」とも言ってもらえないまま、私の大学生活が始まった。大学に入って、初めて日本人の教師や日本人の留学生達に出会った。私は彼らからいろんなことを学んだ。 
 祖父が死んでしまった今、私が日本語の勉強をすることを納得させることはできなくなってしまった。しかし、それは私一人の努力不足の為ではないと思う。今年は日中友好条約締結20周年を迎える。つまり、私が一歳のとき、いや、もしかして私が存在しないときに友好条約は締結されたのだ。0歳の私が20歳の大人になったのだから両国はもっと仲良くなってもよいはずだ。20年の間に祖父の日本に対する憎悪も解けたはずではないか。しかし祖父は私が日本語を勉強することを許さなかったのではないか。本当の意味で友好は実現していなかったからだ。友好、友好と両国ともまるで映画のせりふみたいに言ってきたが、一人の老人の怒りさえ取り除くことができなかったのではないか。 
 ためしに普通の中国人に「『日本』という国はどんな国か?」と質問してみよう。きっと答えは「中国を侵略したひどい国!」と答えるだろう。戦争で傷ついた中国人は日本に対して、今も憎悪感が強い。その一番の代表的な人が祖父だと思う。 
 それではいったいどうすれば中日友好が深められるのでしょう。中学時代から歴史の授業では居眠りばかりした私が、遣隋使とか遣唐使とか言っても誰も説得できるはずはない。私の祖父のように日本を憎んでいる人のいる事を日本人に知らせたい。私は私の知った日本人を祖父に知らせることができなかったけど、祖父のような人に日本人を会わせたい。会ってどうなるのかは分からない。けど祖父が死んでしまった以上、祖父に許してもらうことはできないので、祖父のように今も日本を憎んでいる人たちに、中国人のために何かをしようとする日本人がいることを知らせたい。そして一方で日本が中国をどう宣伝しているかしりたい。それはこの前、日本人の子供がうちの教室で辮髪の格好をしている人の絵を画いて「中国人です」と言い、「日本で中国人と言えばこんな格好のイメージです。」と説明を加えた。絵の上手さには敬服したが不思議なことはなぜいまだに中国人ってそんな格好をしているかとのことだ。一体「友好」のため日本はどういうふうに中国人のことを宣伝するのかと思ったからだ。 
 今私の夢というか願いは卒業して日本で中国語を教えたいことだ。そのための私は今しっかり準備している。 
 もし、私が日本人と結婚して子供と一緒に祖父の墓参りに行っ手紙-  十年前亡くなったお父さんへ 
お父さん、別れてすでに10年になりましたね。 
今日はお父さんのお誕生日です。もし生きているなら、今年は51歳でしょう。お誕生日を祝ってあげるために、ケーキを買っておきました。田舎で生まれ,田舎で育ち、最後も田舎でなくなったお父さんはこんなケーキを見たことも無いはずです。贅沢というでしょう。でも、お父さんが生前見たことが無いからこそ、見せてあげたいのです。 
 ふと私の10歳の誕生日が思い出されました。すごく貧しい生活をしている家庭にもかかわらずお父さんは私に卵を10個も煮てくれましたね。そして、「来年はもっと素晴らしいお祝いをしてあげる。」と言ったお父さんは、翌年交通事故で私のもとを離れて行きました。信じられないほど突然、それも一語とも言わずに静かに行ってしまいました。その日、私は泣いて、一時は気を失ってしまいましたが、お母さんはすごく怖い顔をして「行け!行け!自分が何様だと思って勝手に急いで行くの!そんなに一人でいたいなら行け!」と言いながら病床の上のお父さんを殴っているのでした。三日間植物状態のお父さんの世話のために、何も食べず、一分間も寝ていなかったお母さんがです。「殴らないで、父ちゃん痛がるよ。」幼い私は泣き声でつぶやきました。「もう死んだ。痛みも知らない!」お母さんはすごく怒っていました。 
 そんなお母さんが今まで10年間再婚もせず、四苦八苦して私を今のような大学生にまで育ててくれました。そして他の人が羨ましがるほどお小遣いをくれるし、欲しいものはすぐ満足させてくれて私は甘やかされています。お父さんがいなくても寂しさを感じないようにというお母さんの気持ちを私は充分理解できます。しかし、私にはいつまでも他の人の持っている大切なものが足りないのです。それは父親からの愛です。 
 「お父さんのお仕事は?」と人に聞かれるたび、「父は昔教師をやっていましたが今は……」私はこれ以上話しを続けることができません。「あ!もうこの世にいない」と認めざるを得ない現実で、私は悲しみと寂しさで胸がいっぱいになるのです…… 
 永遠に帰らぬ人と知っていながらも、永遠にお父さんの顔も見られないことも知っていながらも、私はお父さんのお誕生日を毎年毎年祝ってあげています。きっとお父さんに所に伝えられると信じているから。 
♪happy birthday to you! 
happy birthday to you! 
happy birthday dear お父さん! 
happy birthday お父さん!
たら、その時は祖父が「おめでとう」と言ってほしいものだ。 
環日本海の交流のために 
-積極的な留学生制度を考える- 
かつて日本海、東海は日本と対岸の中国、韓国、朝鮮との交流を促がす恵の海であった。しかし、明治以降近代化の道を進み出した日本はその目を欧米に向けた。そして経済活動の中心は東京や大阪の太平洋側に移り、日本人の目はアジアではなく、太平洋側、アメリカ側を向いてしまった。日本海沿岸の地域は「裏日本」と呼ばれるようになった。つまり「表」に対する「裏」になったのである。「裏日本」というと暗いイメージがあり、産業も太平洋側が主流になってしまった。一方私たち中国からに日本をみる時、日本海、東海があり、日本列島がある。その向う、つまり日本の裏側にアメリカ大陸がある。もう一度、この海、日本海に交流の歴史を復活させたい。その第一歩として、ささやかな提案を試みてみた。 
異文化が交流するためには、語学に堪能な人材の養成が肝心だ。そういう人材が掛け橋となって,人と人の交流とお互いの産業や文化の交流が促進される。 
私たち遼寧大学外国語学部には英語科、日本語科、ロシア語科、韓国語科が設立されている。各々の学科で語学能力を見につけた人材が社会に進出している。各々の場で日本、韓国、ロシアとの交流の掛け橋の役割を果たしている。しかし、それが充分であったとは思えない。言語の勉強、その言語を通じて学ぶその国の文化や生活を理解するには,その国に留学するのが最もいい。 
日本語を勉強する人なら、日本に行って一層語学力を高めたいと思うだろう。日本の社会で日本人と生活し,日本の生活を自分の目で見,自分の身体で感じて始めて本当の日本語能力が身につくと思う。 
しかし、個人レベルの留学には限界がある。今、環日本海の交流を他方面に展開しようとするなら、まず環日本海の各々の地域の間で大量の留学生を交換し合うことが大切ではないか。私の大学を例にとって見ると、現在、日本や韓国やロシアの留学生が相当数にやってきている。しかし私たち遼寧大学の学生は簡単には留学できないのが現実だ。中国の経済成長が伸びているとはいえ、まだ普通の人々は貧しい状態から脱け出していない。その中国人が物価の高い日本や韓国に留学することは難しい。私個人の希望としても、先に述べた地域や国家の交流の観点からも、もっともっと留学を易しいものにする必要を感じる。 
現在の日本は高齢化社会に向かっている。その上、大家族制度が崩壊し、核家族化しているとも言う。若者は親元を離れて、東京や大阪などの都会に出て行く。日本海沿岸の県は県都を除いて、殆どが過疎化していると言う。「100の指標!統計からみた富山」によれば、秋田、石川、富山、福井、島根、鳥取など日本海側の県の人口は、肩を並べて下位にある。人口密度も全国平均より低い。それに反して例えば富山県の場合、持ち家比率や住宅延面積などは全国で1~2位の状態になっている。そういう統計から私は次のような想像をしている。 
町に若者の姿が見えない。老人は空っぽの家を守って生活している。子どもがいないため、食事の時もいっぱいの料理があっても美味しくない。いや、子どもがいないから美味しい料理を作るのも面倒くさいと思うかもしれない。お盆やお正月になってやっと若者は実家に帰ってくる。しかし、一週間もたたずにまた都会に出て行ってしまう。老人は、空いている子どもの部屋を見ながら、寂しく過ごしている。このような想像をしている時、日本の新聞に「山村留学」の記事が載っていたことを思い出した。 
こういう過疎化、高齢化の町に、中国からの留学生を受け入れてはどうだろう。寂しかった街に若者の姿が現れ、それだけでも街は活気にあふれ、老人たちの心にも活気が蘇ってくる。 
「統計かr見た富山」によれば、人口転入率も全国平均の2.45%より低い1.63%になっている。それに対して財政関係は全国平均を超えているものが多い。書籍雑誌購入額は二本海側の県がみんな上位を占めている。私の想像がまったく根拠の無いものではない証明だろう。 
大きな家の中で一人、読書している老人。それは想像するだけで寂しい。それなら中国から来た若者と一緒に生活してみてはどうだろう。中国の色々な習慣が楽しめる。中国の事を想像や書籍で知るのではなく、中国人本人から知ることができる。暇な時は一緒に八百屋に行って野菜を買ってくる。これからは中華料理へ行く必要なない。留学生と一緒に本場のギョーザをつくって食べることができる。留学生たちがお寿司や天婦羅を習うこともできる。日本人の家庭に泊まった留学生は寮に住むより安定できる。中国にいる親たちも心配する必要はない。留学生と日本人、いや、日本の老人たちとの間に本当の交流が育まれる。まるで本当の家族のように団欒ができる。そしてお互いの本当の姿を知り合うことができるだろう。 
次は私たちが富山の大学生に行ったアンケート結果から考えてみよう。遼寧省と富山県は友好関係を結んでいる。しかし、「東北三省の中の都市を3つ書いて下さい」という質問に、北京や上海がたくさん書かれ、正確に書けた人は64人中3人しかいなかった。大学生たちの中国に対する印象は、天安門広場と自転車とチャイナドレスだった。これらを合わせて見ると、彼らの頭の中で想像している中国女性はチャイナドレスを着てチャリチャリと自転車に乗り、天安門広場を行く群衆の一人ということになる。一方、私の頭の中には着物を着てトヨタに乗ろうとしている日本人の女性の姿を思い浮かぶ。日本に行ったことがない私の想像はたぶん実際と違うのだろう。こんなにお互いを知らないのは、お互い交流が少ないからだ。しかし、アンケートの別の項目を見ると、中国語を勉強したい人が80%も越え、さらに中国に留学したいという人が50%を越えている。是非私たち遼寧大学に留学してください。遼寧大学の日本人や韓国人やロシア人を見ていると、全く中国語を知らなかった人でも、そして必ずしも一生懸命勉強していない人でも、半年で大体の話しが通じている。もし中国に来なくて、自分の国でこの程度の語学力を身につけようとすれば大変だろうと留学生自身が言っている。しかし、私がちょっと気になっていることは、留学生たちは中国語の授業が終わると、自分の国の友達と自分の国の言葉をしゃべっている。中国人の友達はあまり多くない。私たち中国の大学生はほとんどが寮生活をしている。そして中国の家族は留学生に宿を提供するほどは広くない。それなら留学生たちと一緒に寮生活をしたらどうだろう。日本人は私たち日本語科と、韓国人は韓国科と、ロシア人はロシア語科と一緒に寮生活をする。お互いの言葉の勉強になるのは当然のこととして、お互いの素顔を見せ合うことができ、本当の交流が生まれるだろう。そしてお互いが本当の意味で生活を共有しあい、認め合うことができるだろう。 
しかしアンケートの記述に見られるように、「中国の食べ物は油っぽい」「便所がきたない」という見方や日頃の留学生たちと接してみて、「中国人とは食べ物の好みも習慣も考え方も違うのに一緒に住めるものか」と頭を横に振る人がいるに違いない。もし私が日本に行けたとしても、すぐその日から日本の生活に慣れることは決して無いだろう。国が違い、人が違えばそれは当然のことだ。もし中国の一切が留学に来た人の国と同じだったら、つまり国と国の間で何の違いも無いとしたら、留学の必要はない。従って交流の必要もない。 
おわりに、「日本海という呼び方に疑問を持ったことがありますか」との質問には、「はい」と「いいえ」が50%ずつだった。地中海、バルト海、紅海など、一つの国の名がついている海は、ほとんどない。潮流は国境を越えて流れているからだ。この海の名も交流を促がす名前に変ることが望ましいと思う。 
個人の留学にはとてもお金がかかる。お互いの国の事情にあった、積極的な留学制度をつくってほしい、それが私の提案だった。日本海の上をお互いの、しかも多くの留学生が行き交う時、この海の名も新しく生まれ変わることだろう。その時こそこの海は再び恵の海となって新しい歴史を作り出すと思う。 
私の知っている日本 
この夏、3ヶ月間上海の日本企業で実習するチャンスが与えられました。しかし、そこで出会った日本に私は戸惑うばかりでした。 
 事務所では「すんまへん」とか「ぼちぼち行こうか」とか「よかよか、少し遅れてもよかよか」というわけの分からない言葉が飛び交い、私は本当に知らない国に来たような感じがしました。私達は毎日39℃の酷暑の中、ヘルメットとかぶり、強い日差しを浴び、現場で通訳をしなければなりませんでした。夜は、扇風機にぬるい風を吹いてもらいながら昼分からなかった「アングル」とか「塩ビ管」とか「ソケット」などの専門用語を一生懸命覚えていました。 
 少しゆとりができると一緒に働く日本人の仕事ぶりが目に入るようになりました。それでも東北地方に育った私は暑さになれない仕事に疲れきっていました。 
 そんなある日、私は「人はなんで生きているのか、毎日こんな大変な仕事をして、決して多くはないお金をもらって多少自分の欲を満足させるという生活なんてつまらない。」とさも世間のことが解かっている口調で不満を言いました。その日本人はしばらく考えて「人は綺麗に死ぬ為に生きるのだ」と言いました。その瞬間私は簡単すぎる単語で構成されたその言葉の意味がわかりませんでした。 
 この言葉は中国語にも英語にも訳せそうにありません。言葉は民族性を反映します。そこまで考えて私は「散る桜海碧ければ海へ散る」という俳句を思い出しました。日本人は桜の花が大好きです。桜の花を見たことのない私に、淡白で汚れない花びらが風に乗って一面の海へ散ってゆく姿を想像させました。しかし、私はその美しさに悲壮感を感じます。 
 「人は綺麗に死ぬ為に生きている」。なんか桜の花のようです。しかし、桜の花は散る為に咲くのでしょうか。花が美しいのは、受粉の為に虫を寄せる為でしょう。花が美しいのは立派な実をつける為の植物の知恵です。決して綺麗に散る為に咲く花などないと思います。 
 人も同じですね。人は死ぬ、それは動物である私達の宿命です。しかし、綺麗に死ぬなんて誰が考えるでしょう。人は自分の意志で両親を選ぶことはできないし、自分の意志で死ぬこともできません。自分の意志で死ぬというのは自殺です。太宰治、芥川竜之介などの日本の作家たちは自殺しました。彼らは綺麗に死ぬ為に素晴らしい小説を書いたのでしょうか。やっぱり私には簡単すぎるこの日本語が理解できません。しかし、その中年の日本人はごみ箱の傍らに落ちている吸殻を拾ってごみ箱に入れます。現場では自ら高いところに登って、下で大声で通訳してる私の顔に彼の汗が落ちてきたこともあります。男くさい汗でした。私はその汗が美しいと思いました。一生懸命仕事している姿が美しいと思いました。 
 その彼が「綺麗に死ぬ為に生きている」と言いました。日本に行ったことのない私は今も海へ散る桜の花びらを想像するようにこの言葉を考えています。


 

作品录入:totti250    责任编辑:totti250 

  • 上一篇作品:

  • 下一篇作品:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    村上春树《骑士团长杀人事件》

    日本作家到底多有钱,看看村上

    日媒推荐七部日本轻小说入门作

    日本明治时代可以靠写作维生吗

    林少华:村上春树审视的主题依

    告诉你一个真实的芥川龙之介

    广告

    广告