「き」と「けり」の違い——贯通日本文学频道
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「き」と「けり」の違い

卒論で可能助動詞について考えているときに、
「き」と「けり」の違いが分かったような気がしたことがあった。
論証はできないが、仮説の域で、この違いについて書いてみる。



例えばここに

 花取る

という文があったとして、これは自分の手で花を取ったことを表す。


 花取れる

になると、花が勝手に取れたことを表す。
私のせいじゃありません。
風かなんかが吹いて自然に取れたんですと。


この2つの「取る」と「取れる」を比べると


   取る    toru
   取れる   toreru


という風に、「取る」の間に「er」を挟んだのが「取れる」になっている。
ものごとが起こったときにそれが「自分の力のおよぶ範疇ではなかった」ことを表すerだ。

これは可能助動詞の中の「er」と同じ働きだと私は思う。


自発の意味のerはもちろん「自分の力の及ぶ範疇の外のできごと」だし、
受け身も人にされるんだからそうだ。
可能という意味も、つまり

「走る」かどうかは自分の意志で決められるけど、「走れる」かどうかは自分には決められない。
「走ることができるかどうか、可能性が存在してるかどうかは私の力の及ぶ範疇じゃありません」ということだ。


人は、「自分の力の範疇じゃないこと」に「er」をつける。
(そういう意味じゃないerもあるけど、それはまた別の話として。)


そこで「き」と「けり」だ。


「き」と「けり」はよく見るとこういう関係になっている。


   き    ki
   けり   keri


「き」の間に「er」を挟んだのが「けり」なのだ。

そして「き」は自分が直接体験した過去を、
「けり」は人から聞いた過去を表す。

自分が目で見て、責任を持って断言できるのが「き」、
「人から聞いた話だからちょっとアレなんだけど」という含みをもつのが「けり」。


ところで、erというのは段々使っているうちに鈍くなるというか、
erだけじゃ足りない気がしてきて「ar」と交互にはさんだりして増殖していくようだ。
「減らす」でいいのに「減らせる」と言ったり、
「書ける」でいいのに「書けれられる」(これは大学時代に実際聞いた言い回し。普段こういうこと言う人はけっこういます。)と言ったり、
どうも接頭語の「お」「み」と同じでどんどん過剰になっていき、単体での意味は薄まる傾向があるような気がする。

このへんのことは、「けり」が詠嘆の意味を持つこととなにか関係がありそうに思う。(いや違うかな。)


あと、「過去形」と言ってるけど、私は日本語の過去形は「実現形」だと思っている。
「現実化済形」というか。

自分の頭の中で想像してたことじゃなくて、
もう実際にそうなったことですよという意味。
それは時制という視点から見ると確かに「過去」なんだけど、日本人としては別に時制とかじゃなくて、
頭の中のことか、現実化済みかどうかで使い分けているように思う。

「使い分けて」の「て」なんかも、助詞だけど助動詞「た」の仲間なんじゃなかろうか。
「使い分けてみる」というときの「て」の「t」音と、「使い分けた。」というときの「た」の「t」音は別人という気がしない。
これは「実現の助動詞t」なのではなかろうか。

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