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グノーシス主義概論

作者:贯通日本…  来源:本站原创   更新:2004-5-15 23:13:00  点击:  切换到繁體中文

 

グノーシス主義概論



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   一般に、「グノーシス主義 Gnosticism」と呼ばれている思想乃至信仰は、その原義からは、紀元一世紀より、三世紀乃至四世紀頃まで、ヘレニク世界・地中海世界において流布した、独特の世界観と神観・人間観を持つ「教え」です。

   「グノーシス主義」と云う名称は、一つに、この教えを説き、信奉していた複数の様々な派の人々が、自分たちを「知識ある者=グノースティコイ Γνωστικοι (Gnoostikoi)」と自称していたからですが、この名称が定着したのは、当時、擡頭しつつあった原始キリスト教会が、グノーシス主義運動を、キリスト教にとっての重大な「敵・障碍」であると見做し、「グノーシス主義異端」として、排斥しようとしたためです。(その理由には、キリスト教的グノーシス主義者たちが、自分たちこそ、「キリストの啓示」の真実の意味を知る、「真のキリスト教徒だ」とも称していたことがあります)。

   従って、西欧の思想の伝統において、「グノーシス主義」と云う概念は、キリスト教と密接な関係にあり、長い期間において、初期キリスト教会が、グノーシス主義諸派に対して与えた「異端」と云う烙印を、そのままに受け入れていました。グノーシス主義は、その「思想原理・世界観・人間観」等からすれば、キリスト教の「異端」ではなく、「異教」と云うべきであり、事実、キリスト教とは全く無縁なタイプのものも存在します。また、グノーシス主義一般が、キリスト教の「異端」ではないことは、多くの研究者のあいだで、今日、同意を得ています。とはいえ、この文書では、紀元の数世紀、地中海世界領域にあって繁栄し、原始キリスト教会より、異端とされたグノーシス主義の考えについて、主に説明し論じます。

   わたしたちは、このような意味のグノーシス主義を、取りあえず、「ヘレニク・グノーシス主義」と呼びます。それに対し、思想原理よりして、明らかに、キリスト教とは独立していることが明らかな、「グノーシス主義の原型的」形態については、これを(ヘレニク・グノーシス主義も含め)、「普遍グノーシス主義」とも呼びます。普遍グノーシス主義は、ヘレニク・グノーシス主義よりも広義な意味内包を持ち、また、地理的歴史的にも一般性を具備する思想・信仰の概念です。

   と云うことで、以下においては、ヘレニク・グノーシス主義(とりわけキリスト教的グノーシス主義)を、取り上げます。このグノーシス主義は、次のように概説されます。







   序) 悪の宇宙    



   グノーシス主義では、一般に、此の世を善の世界とは考えずに、矛盾と悲惨、悪しきことごとが充満する「悪の宇宙」と考えます。ヘレニク・グノーシス主義の場合も同様であり、しかし特徴的なのは、このグノーシス主義は、ギリシアやローマの哲学の理論体系や、神話枠が前提されており、「古典ヘレニク世界的秩序宇宙」概念を反転させて、この宇宙が、暗黒の「悪の宇宙」であると主張したことです。

   古典ヘレニク哲学の基本前提としては、「宇宙」は本来的に「善の秩序」の宇宙であり、宇宙の創造者乃至宰領者がいる場合、このような創造者・創造神も、善の神・善の創造者と考えられました。それは、「この世」に現実に、現象的に「悪」が満ち満ちているように思える場合にも、「宇宙の秩序構造」は存在し、それは「善」であり「善なる神・超越者」の設定だと考えたことです。

   古典ギリシア哲学、そしてローマの哲学もまた、「混沌」や「無限」を否定的に捉え、そのようなものを嫌ったことが知られています。(ここで云う「無限」は近代的な数学概念としての無限ではなく、「限定されないもの」つまり、本質が「無規定なもの」の謂いで、それは「混沌」と同様に、「秩序」に反する事態・事象であったのです)。

   原始キリスト教は、その思想原理や信仰原理が、古典ヘレニク思想とは異質ですが、しかし、宇宙創造者=神=ヤハウェを「善の神」と考え、神の創造になる、この「被造世界」もまた、「本来的に善」であり「光の世界」と考えたことで、古典ヘレニク思想・哲学と、神観・宇宙観において共通しているとも云えます。原始キリスト教の諸派も、宇宙を「秩序宇宙」と考えていたと云うことであり、また「秩序」は「善」であることより、この宇宙・世界は、「善の宇宙」であると見做していました。

   しかし、グノーシス主義は、ヘレニク思想の「秩序宇宙」概念を反転させ否定する思想であり、それは、「この世=宇宙」に、秩序よりも寧ろ「混沌」や「暗黒」を見るのであり、この世の「無秩序性・反理性性・非本来性」を主張します。古典ヘレニク哲学も原始キリスト教も、或いはその他のヘレニズム時代の諸宗教(例えば、ミトラ教、ユダヤ教、ゾロアスター教等)も、宇宙の「善なる秩序性」を認めていたのですが、ヘレニク・グノーシス主義は、上述の通り、「宇宙の無秩序性」「混沌と悪の宇宙・暗黒の宇宙」の現前性を主張し、また、そのような世界把握を、信仰・思想の前提としていました。

   (ゾロアスター教は、光と闇の二元論宇宙観を展開しますが、その世界観は、「この宇宙」を舞台にして、「光の秩序勢力」と「闇の混沌勢力」が争っていると云うもので、[最終的には、「光の秩序」が勝利することが前提とされています]、それに対しグノーシス主義の宇宙観は、「この宇宙」は、アルコーンたちの絶対的な支配下にある「悪の宇宙」であって、「光明の世界」は、「叡智=グノーシス」なしでは到達できない、遙かな彼方にあると云う展望で、光と闇の二元論と云う点で似ていても、根本的に異なる世界観なのです)。


   1) 悪の起源 ・ 創造神話    



   ヘレニク時代の多様な思想も宗教も、皆、「善と秩序の宇宙」を確信していたのに対し、ヘレニク・グノーシス主義が何故「悪と混沌の暗黒宇宙」を唱道したかと云えば、それは彼らの「現存在」における世界把握に起源があるとも云えるでしょう。とはいえ、彼ら自身は、「創造神話」と呼ばれる、「この世の悪と混沌の起源」についての合理性的な「説明理論」を持っていました。

   ヘレニク・グノーシス主義の教師たちは、伝統的な「秩序宇宙・秩序の善なる神」を否定し、この世界は「悪の宇宙」であり、この世界を創造した者も「悪の神・不完全なる神」であると見做し、多くの派では、この悪の宇宙の創造者を、プラトーンの『ティマイオス』に描かれている、下級の世界造形者である「デーミウルゴス=造物主」と同一視しました。プラトーンのこの著作においては、当然、デーミウルゴスの上位に、高次の「真の神」が前提されているのですが、グノーシス主義の教えにおいても、「この闇の宇宙」の上位に「真にして隠された・知られざる光の超世界」があり、また、デーミウルゴスの遙か上位に、「真にして隠された、または忘却された、至高神」が存在すると主張します(この「隠された、知られざる真の至高神」は、認識や理解を超えた存在であり、名を付けることもできないとされますが、幾つかのグノーシス主義のシステムでは、この「知られざる至高神」を、「ビュトス(深淵)」とか「プロパテール(原父・先在の父)」と呼びます)。

   ユダヤ神秘主義思想のカッバラーが説くように、或いは新プラトン主義の哲人プロティーノスの「一者 To Hen」よりの存在者の下降・流出の説にあるのと同様に、グノーシス主義においても、「真の至高神=知られざる神」からの「存在の流出」と云うものを考えます。この「流出」は、最初、グノーシス主義者たちの立場より云っても、「秩序的」に行われていたのですが、「或る事件」を契機として、グノーシス主義の「真の秩序宇宙」(これを、プレーローマ とか、オグドアス・アイオーン世界などと呼びます)に、無秩序と混沌・暗黒の萌芽が生じ、この萌芽より、「この悪の宇宙」を創造した、アルコーン(ギリシア語で「支配者」の意味)と呼ばれる、(或る意味で無知蒙昧で傲慢な)複数の超霊的存在が生み出されます。彼ら、または彼らの第一人者である「第一のアルコーン」(これが、上に述べた「デーミウルゴス」であり、デーミウルゴスはまた、ヤルダバオートの固有名を持ち、『旧約聖書』の至高神ヤハウェと同一視されます)が存在を始めます。

   こうして、ヤルダバオート或いはアルコーンたちが、自己の「不完全な知識や能力」において、それと意識してか無意識でか、上位の光の高次世界(すなわち、プレーローマ超世界)等を模倣して、「この世界」を創造乃至造形しますが、それは、彼ら低次アイオーンであるアルコーンたちの不完全さ故に、不完全な世界となります。そして、このようにして生み出された「不完全な世界」が、実は、わたしたち人間が生きる「この世界=宇宙」であり、そこには、悪と闇が満ちている云うのが、グノーシス主義の主張です。

   これが、グノーシス主義に共通する基本構造としての「悪の宇宙」の起源の説明神話=創造神話です。以上の説明より明らかなように、この世界を創造した者=デーミウルゴス・アルコーン自体が、そもそも不完全な存在で、「超宇宙的過失事件」を契機として、「偶然」に生み出された存在なのですから、彼ら、または彼(ヤルダバオート)が創造した、この世界=宇宙が「悪の宇宙(光なき暗黒の世界)」であるのは、当然の事態であると云うことになります。


   2) 人間    



   この世はグノーシス主義にとっては、以上に述べたように「悪の世界」です。では、そのなかに生まれ、悪しき世界のなかで、悪と共に生きる、わたしたち「人間」と云う存在者は、グノーシス主義では、どのようなものと把握されるのでしょうか。(実は、思想の発生機構からすると、この問いは転倒しており、「人間の存在条件・存在様態」が悪にあると云う自覚から、逆に、世界創造神話が構想され、「悪の宇宙の起源」神話が構成されたと云うべきなのです。しかしここでは、説明の順序として、ヘレニク・グノーシス主義における、「人間の把握」つまり「人間観」を説明しましょう)。

   「人間」の起源は、グノーシス主義の諸派によって、様々な創造神話があり、起源論がありますが、基本的には、人間の「三元構成論」と云うグノーシス主義に特有の人間把握から説明するのがよいでしょう。これは、人間は、「霊(プネウマ Pneuma)」「心魂(プシュケー Psykhee)」「肉(サルクス Sarks)」より構成されると云う理論で、グノーシス主義の教えでは、この裡、「心魂」と「肉」は、デーミウルゴスやアルコーンたちの創造になるもので、この不完全な宇宙と同じ性質を持っており、即ち、不完全で、悪であり、また永遠的でなく、可壊で、地上に腐敗し滅び消滅する定めにあるとされます。

   では、「霊(プネウマ)」はどこから起源したのかと云う疑問が起こります。これは、グノーシス主義の諸派によって説が色々とありますが、基本的に共通するのは、「霊(光の霊)」は、プレーローマに起源があり、霊を創造したのは、デーミウルゴスや諸アルコーンではなく、それは、光明に満ちる「プレーローマ永遠界」と、この「悪の宇宙」の中間にある「境界世界」を介在として、プレーローマの「知られざる至高神」が創造したものである、或いは、プレーローマの真実の高次アイオーンたちと同質なものであり、これこそ、「人間の本来的本質」であり、不滅であり永遠世界に属し、「悪よりの解放」の原理を裡に含むものであるとされます。


   3) 世界論,反宇宙的二元論  



   こうして、人間の三元構成論は、実は、グノーシス主義における「全体世界論」における「三世界構造論」に対応します。以上までの説明で、グノーシス主義は、悪に満ちる「地上世界=この宇宙」と、悪より解放された、榮光の知られざる至高神の支配する「プレーローマ」または「オグドアス・アイオーン界」の二元構造になっていることが明らかになっています。このように、「悪の暗黒宇宙」と「真の本来的光明永遠世界」を対比させ、「この悪の宇宙」を否定する思想を、「グノーシス主義」の「反宇宙的二元論」と称し、これは、或る思想・信仰が、グノーシス主義であるかどうかの一つの判定「規準」です。そして、このような世界全体について云える「反宇宙的二元論」構造が、実は、人間の存在においても、構造として備わっていることが分かります。つまり、「悪の宇宙」に属する闇の「肉」と、「プレーローマ」に属する「光の霊」の二元対立構造がそれです。

   ところで、上の説明で、何故「心魂(プシュケー)」を、「悪の宇宙」に属すると、述べなかったのか、疑問に感じられる方もおられるでしょう。それは、実は、人間の「心魂(しんこん・たましい)」と云うのは、非常に複雑と云うか、微妙な位置にあり、それはデーミウルゴスが創造したものですが、しかし、「霊的要素」 「神的性質」も僅かに帯びており、グノーシス主義の派によって解釈が異なりますが、或る条件においては、「心魂」の救済が可能であり、「たましい」は、「霊」と共に、プレーローマの神的永遠世界へと帰還して行く可能性が認められているからです。「心魂」は、「境界的存在要素」であり、人間の三元構成論が、「霊・心魂・肉」であるならば、これは、「全体世界」の三階梯構造に丁度対応しているとも云えるのです。

   先に少し述べましたが、グノーシス主義の「全体世界構造」は、「悪の暗黒宇宙=地上的世界=質料的・物質的世界」 対 「光と善の宇宙=天上的超越世界=形相的・霊的世界」の二元論が基本にあり、これを、グノーシス主義の「反宇宙的二元論」構造と呼びました。しかし、もう少し詳細にグノーシス主義諸派の世界論を眺めると、もう一つ、「地上世界=悪の宇宙」と「天上世界=霊の永遠界」の中間に、「境界的世界」と云うものが設定されているのが普通です。これは、「創造神話」において通常語られるのですが、プレーローマ永遠界における「或る事件」とは何なのか、と云う問題にも通じます。

   そもそも、この世=悪の宇宙が創造される契機となったのは、最初に述べたように、「知られざる至高神」の永遠的「流出」の過程において生じた「或る超宇宙的事件」に起源があるとされます。この「事件」は、幾つかのヘレニク・グノーシス主義の派の神話では、至高アイオーン(プレーローマを構成する光明の高次霊・永遠原理)たちのなかの最低次のアイオーンである「ソピアー(智慧) Sophiaa」と呼ばれる女性アイオーンが、その未熟さ故に、知り難い、至高の「父(ビュトス=深淵,Bythos)」の本質を知ろうとして過失を犯し、大いなる苦しみや困難に陥り、彼女は、それ故に、プレーローマ世界より落下して、「中間世界」とも呼べる世界にあって霊の流浪を経験します。(この超宇宙的過失事件を引き起こしたのは、最下位女性アイオーンのソピアーではなく、男性アイオーンのロゴスであったと云う教説も存在します。『ナグ・ハマディ文書』中の『三部の教え』においては、そのように説明されています。勿論、これには或る理由が想定されるのですが)。

   アイオーン・ソピアーのこの「過失」とその結果の苦悩から、「中間世界」にソピアーの分身とも云える様々な霊が生まれます(例えば、ヤルダバオート=デーミウルゴスの母とされる「アカモート」など)。他方、プレーローマの至高アイオーンたちは、ソピアーを救おうと試みるのですが、事態は進行し、「中間世界」にアルコーンと呼ばれる低次霊・低次アイオーンが誕生し、その頭でもあるデーミウルゴスが、驕り高ぶった挙げ句、自己を至上者と錯誤して、みずから「世界」を創造しようと試みます。しかし、デーミウルゴスは、完全な霊ではなく、至高のアイオーンでもないので、不完全な創造・造形しか行えず、その結果、「この世=暗黒の悪の宇宙」が創造され、人間もまた、この暗黒の宇宙の住民として創造されたのだと云うことは既に説明しました。

   そこで、以上に述べた、グノーシス主義世界論における、「天上世界」 「中間・境界世界」 「地上世界」の三世界論と、既述の「人間の三元構成論」は、丁度パラレルな形にあるのだと云うことが出てきます。プレーローマ或いは天上世界に対応するのが「霊」であり、地上世界或いは悪の宇宙に対応するのが「肉」で、そして、「中間・境界世界」に対応するのが「心魂」であると云うことになります。「心魂」は、この三元世界論との対応性から見ても、明らかに、不安定な位置にあることが分かります。人間の「霊」は紛れもなく、天上世界=プレーローマに属するに対し、「心魂」は、この境界世界に属すると考えられるからです。

   哲学的原理より見れば、「肉」は、「質料・物質」であり、「霊」は、「純粋形相・イデアー」であると云うことになりますが、「心魂」は、「質料的性質を備える形相的存在」と云うことになるでしょう。アイオーン・ソピアーが、中間世界で苦難に陥っているのと丁度対応して、人間の魂=心魂も、中間世界において、苦難に喘いでいるのだとも云えます。

   ヴァレンティノス派では、人間は最初から三種類に分かれており、それぞれ生まれた時より「運命」が定まっているとされます。即ち、「質料的・物質的人間」と「霊的人間」、そして「心魂的人間」です。「質料的人間」には「救済」はなく、「霊的人間」は、最初から「救済」に与れることが予定されており、「心魂的人間」は、その行いや、「認識・覚醒」に応じて、救済されるか否かが、決定されるとします。これは一種の「運命論」になっています。

   他のヘレニク・グノーシス主義諸派は、ヴァレンティノス派の教えほど明確ではありませんが、しかし、やはり、「宇宙的既定運命」と云う概念を持っていたと考えられます。「人間」は、肉と霊を持つことで、滅びる部分と、救済に与れる部分があると云うことになりますが、問題は、「個人の意識=我」の救済があるかないかでしょう。そして、「個人の意識=我」とは、要素的には、「心魂(たましい)」のことを意味すると考えるのが妥当でしょうから、「人間の救済」の問題とは、つまる処、人間の「心魂」或いは「霊魂」の救済の問題である、と云うことになります。そこで、次に問題となるのは、霊魂(たましい)の救済を、ヘレニク・グノーシス主義では、どう考えていたかと云うことです。


   4) 魂の救済    



   ヘレニク・グノーシス主義においても、人間の「運命」は、定まっていると云う教説がある一方、それは宙吊りになっているとも云えるのです。ユダヤ教での救済は、広範囲な「律法の遵守」と、神への帰依、信仰の深さによって決まるとされます。このことはイスラム教もそうでしょうし、キリスト教の場合、イエズスが「律法」を「成就した」と宣言しているので、律法の遵守とは云いませんが、「キリスト教的律法」と呼べるものが、早くも、紀元二世紀乃至三世紀には形成されており、カトリックでは、「聖座教会=カトリック教会」への従順と服従が、その救済の要件にもなっていると云えます。

   しかし、いずれにせよ、ヤハウェの啓示宗教である、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にあっては、「神への帰依・従順」つまり、言葉を換えて云えば、神への「信仰(ピスティス Pistis)」が、救済の条件になっているとも云えます。それに対し、グノーシス主義における「救済の要件」は、プレーローマの「知り難い至高神(プロパテール=プロパトール,ビュトス)」への信仰(ピスティス)の度合いで決まるのではない、と云う点が異なります。グノーシス主義は、まさに「グノーシス」の主義と云うその名が語る通り、「グノーシス(Gnoosis)=叡智・認識・知識」を人(の魂)が熟知しているか、真の神と偽の神(デーミウルゴス)の対立になる、この全世界の「反宇宙的二元論」構造を覚知し認識しているかと云うことが、救済の与件となると云っても過言ではありません。

   グノーシス主義のこの「救済観」は、仏教の救済或いは解脱に似ているとも云えます。少なくとも原始仏教においては、「正しい言動」を行い、「戒律(正しい言動とは何かを定めた規則とも云えます)」を遵守し、そして何よりも、自己が「無明」つまり「無知」であり、「世界の真理」を知っていないことを自覚し、世界の真理とは何かを覚知し認識し、無明より脱することで、「覚りの境位」 「救いの状態」に入れると教えます。グノーシス主義の「救済論」は、或る意味で、この仏教の、「無明」よりの「真理の覚知」にも似ています。仏教とグノーシス主義の救済論が異なるのは、仏教は、「迷妄」を脱し、真実の現実の認識に到達することを目標としたのに対し、グノーシス主義の「覚知・認識」は、一見、荒唐無稽とも云える「創造神話」などを認識して受け入れ、宇宙と人間の運命についての「神話的構造」を自覚すると云う点でしょう。

   ともあれ、仏教は、「無明(無知),avidyaa」により、世界のありようの真実に対し、迷妄=妄想を抱いている人間が、その妄想より解放されることで、覚りの境位・解脱の境地に入れ、救済が実現すると説くのに対し、グノーシス主義もまた、確かに、人間の「無知(アグノイア),agnoiaa」からの離脱と、グノーシス(叡智・知識)の獲得或いは覚知を目指すとは云え、グノーシス主義の説くグノーシスは、反宇宙的二元論構造の世界のありようについての「知識」であり、「認識を越えた、知り難い榮光の至高神」が真実の神であり、また、この至高神の宰領する永遠の圏域である「プレーローマ」こそが、自己の魂の本来的故郷である、と云う真実なのですから、そのような「知識」を覚知し認識することで、いかにして「救済」が成立するのかと云う疑問が生じます。

   しかし、グノーシス主義は仏教ではない訳で、ユダヤ教やキリスト教が、自由意志を持つ「人格神」の「選択」により、人間の魂の救済が成ると説くのとはかなり異なりますが、グノーシス主義においては、先にヴァレンティノスの「予定説」教義を述べた際、既にその一端が明らかになっていたのですが、「人間の救済」は、その存在の裡に含む「霊(プネウマ)」によって可能となると云うのが、グノーシス主義の救済原理です。「霊」は、元々プレーローマ或いは「至高神」に繋がり、プレーローマ永遠世界を本来的故郷としているが故、人間の裡なる「光の霊」は、最初から救済されているのだとも云えます。

   キリスト教の場合にも、人間の「霊魂」は永遠なもので、本来的に天上世界に属するものですが、それが、滅びの定めに陥るのは、人間の「原罪」において、「存在と命の源なる神」よりの「距離」が成立し、この「距離」つまり「神との隔たり」を解消しない限り、本来永遠なる霊魂も滅亡・死滅するのであると云う論理が前提されているからです。グノーシス主義の場合、「霊」は、キリスト教での霊魂の場合のように、滅び、消滅することはないと考えられます。では、何がグノーシス主義にあって救済されるものなのかと云えば、それは、「個人の本質」とも或る意味で云える、「心魂」の救済であろうと云うことになります。

   キリスト教『旧約聖書・伝道の書(コヘレトの言葉)』は次のように語ります : 「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(十二章7節)。人間が、「肉」と「霊」より構成されている場合、「塵(質料)=肉」は、本来的に地上に朽ちる定めにあるのですから、「霊」が永遠の世界=神の許に帰って行ったとしても、人間個人は地上に滅び消え去る定めにあると云えます。だから、コヘレト(伝道者)は続けます : 「なんと空しいことか、とコヘレトは言う」。

   グノーシス主義の場合、人間は三元構造だったのですが、キリスト教では、人間は二元構造、或いは、四元構造になっています(「霊 pneuma」と「肉 sarks」、そして「身体 sooma」と「魂 psykhee」の四元です)。キリスト教では、霊・肉の二元、或いは、霊・肉・体・魂の四元が、救済にあっては、至高の神の許で、復元され、回復すると説きますが、グノーシス主義にあっては、救済において回復するのは霊であり、そして、人に「資格」がある場合、その「心魂」の永遠世界への帰還があると云うべきでしょう。「肉 sarks」は、「心魂 psykhee」の救済の有無に関係せず、地上に滅びる定めにあると云うべきです。

   ここで、グノーシス神話におけるアイオーン・ソピアーの運命を考える必要があるでしょう。ソピアーは、至高アイオーンに連なる者であったのですが、いわば、アダムとヘーヴァが楽園を追放されたように、自己の行為の責任であるとしても、「中間世界」に落下します。神話は更に、ソピアーが地上世界にまで落下したとも語っていますが、ソピアーは、多数の分身のごときものに分かれ、その一部が地上に落下して、惨めな存在となるのですが、同時に、中間世界に、ソピアーの分身が存在しており、更に、至高アイオーン世界、つまりプレーローマにも、ソピアーの分身が、残存していることが示唆されています。このソピアーの「落下」と、その分身の運命は、実は、人間の地上への落下と、救済、プレーローマへの帰還の象徴神話になっています。何故なら、まさに、グノーシス神話は、ソピアーの救済とプレーローマへの帰還の物語を語るからです。

   ソピアーを人間に置き換える時、人間の持つ「霊」は、まさにプレーローマに属するもので、他方、「肉」は地上に属するものでしょう。そして「心魂」は中間世界に属し、そこで、「無知」のまま、肉と共に滅びるか、「霊」の導きにより、「叡智=知識」を得て、永遠の光の世界へと救済されて行くかが決められると云うことになるでしょう。プレーローマより、その至高霊の部分である、「光の破片」 「霊の破片」が、ソピアーの過失事件により、中間世界、地上世界にばらまかれた時、「光明の霊の破片」は、人間の肉の衣を纏ったのです(或いは、「肉の牢獄」に閉じこめられた、とも幾つかの派では表現します)。やがて、宇宙的運命において、ヤルダバオートの世界が完全にプレーローマより切り離される時、「光明の霊の破片」は、肉の衣を離れ、プレーローマへと上昇し、帰って行くでしょう。この時(或いは、それ以前にか)、肉の衣と霊の分離が起こる時、地上に残された肉の衣と共に、ソピアーの過失により生成されたと云える中間世界に属する「心魂」の運命が決まるとも云えるでしょう。それは、肉の衣と共に地上に残され、そこで滅び消えるか、または、霊と共に、プレーローマよりの救済者と共に、中間的世界より、至高世界=プレーローマに帰還するかのどちらかであると云うことになります。


   5) 叡智の開示者    



   人間の救済は、こうして「心魂」の救済の意味となります。或いは、霊に伴われた心魂の救済ともなるでしょう。しかし、グノーシス主義における霊魂の「救済の条件」は何かと云う問題に再び戻れば、それは本質的には、霊及び心魂の「浄化」と云うことになるでしょうし、プレーローマと本質を同じくするはずの「霊」に「浄化」が必要になるのは、霊が、ただに霊だけではなく、「霊+心魂+肉」の構造となっているためでしょう。肉から切り離されても、霊には、地上世界の暗黒の影響を払拭するための「浄化」が必要になるのであり、ましてや、「中間世界」に属する不安定な位置の心魂においては、「浄化」は必須とも云えるでしょう。

   そして「心魂」の浄化は、その本来性の故郷、即ち、プレーローマの「知識(グノーシス)」の自覚と、霊との神的再結合によって可能となると、或る派では主張します。この場合、心魂を「花嫁」とし、霊を「花婿」として、霊と心魂の「聖婚」によって、心魂の浄化が行われると、神話的比喩で語られます(「心魂 Psykhee」は、ギリシア語の女性名詞であり、他方「霊 Pneuma」は、中性名詞です)。こうして、心魂は女性的人格要素であり、霊は中性的・男性的人格要素であり、両者の神秘なる「結合=聖婚」によって、丁度、プレーローマの高次アイオーンたちがそうであるように、人間の霊魂の「両性具有」化が実現され、それを通じて、心魂の浄化が起こり、これによって、霊と心魂は聖化され、プレーローマへと帰還する準備が完了するのだともされています。

   かくして、「霊魂の浄化」には何が必要であるのか、と云うことがグノーシス主義の救済論の根本条件になるでしょう。そしてそれは、上述の通り、「秘密の知識=グノーシス」であると云うのが、まさにグノーシス主義の答えであり、また、これが、グノーシス主義が、「グノーシス (叡智・認識・知識,Γνωσις)」の名で呼ばれる所以でしょう。しかし、人間は、「秘密の知識=叡智」について、「無知(アグノイア Agnoia)」な状態にあるのであり、その理由は、光明の世界の真実が、「光の破片=霊」を存在の裡に秘める人間たちに知られのを怖れた、或いは嫉妬した、造物主=デーミウルゴスが、この知識を人間から隠蔽した為であるとも、或いは、人間の霊が地上に落下した時、その「本来的故郷」についての記憶や知識を、人間自身が忘却してしまった為であるともされます。

   これらの「知識=グノーシス」は玄妙な叡智であり、それを正しく認識し覚知できる者は、優れた人間においても稀であり、それ故、至高世界プレーローマにあって、アイオーン・ソピアーの救済を計画している高次アイオーンたち、或いは榮光の「知られざる神=ビュトス」が、「真実の知識=叡智」の開示者を、「救済者 Sooteer」として、人間の存在する地上に派遣し、それによって、グノーシスの教師たち・その信徒たちに、「叡智」を開示し、救済への道を示したと云うのが、グノーシス主義の「グノーシス=叡智」の覚知・自覚・認識による救済論の構造です。

   「グノーシス(叡智)」とは究極的に何であるのか、一つは、反宇宙的二元論構造の世界のありようの真実や、またプレーローマ永遠界の存在や、人間の裡なる「光の霊」の存在、デーミウルゴスやアルコーンたちの「悪の策略」の暴露などが「知識」として含まれるのでしょう。しかし、果たして、それだけであるのかと云う疑問もあります。「知られざる神・認識を越えた榮光のプロパテール」についての「知識」が謎であるように、「真実開示者=救済者」の伝える「知識」そのものに、何かの「資格」を持つ者でなければ分からない「真実の智慧」が秘められている可能性が大いにあると云うべきでしょう。

   救済を可能とする「グノーシス=知識・叡智」の開示者は、同時に「救済者」でもあり、それはヘレニク・グノーシス主義、特にキリスト教的グノーシス主義では、イエズス・キリストがそれであるとされます。しかし、ヘレニク・グノーシス主義の起源問題において、救済者は、最初、女性的原理或いは霊であったとする見解があります。ソピアーは、救済されるべき「人間の運命」の象徴原型でもあり、「救済される者」ですが、実は、ソピアー自身が、人類の救済者であるとも解釈できます(「救済する者」が、実は同時に「救済される者」であると云う逆説的事態が、グノーシス主義にあっては、救済論における原理として前提されています)。

   また、救済者は、一般に、プレーローマより派遣される高次アイオーンの超霊と考えるべきでしょう。しかし、無論、マニ教では、まさにマニ自身が「真実開示者」で、また、彼に先行する覚者である仏陀、ゾロアスター、イエズスなどの「人間」が救済者であるとされています。しかし、マニにしても、「パラクレートス(取りなしの聖霊)」の啓示を受けて、「真実」を覚知し、真実の伝道を始めたのです。このことは、人間イエズスの場合にも同様で、イエズスは、ヨルダン川で、バプティスマのヨハネより洗礼を受けた時、天から訪れる、鳩の形の聖霊(ハギオス・パラクレートス)の言葉を聞き、自分が救済者であることを自覚したのです。



結論) 暗闇のなかの光


   キリスト教『新約聖書・ヨハネ福音書』第一章5節に、「光は暗闇のなかで輝いている。暗闇は光を理解しなかった(και το φως ’εν τηι σκοτιαι φαινει, και ‘η σκοτια ’αυτο ’ου κατελαβεν. - kai to phoos en teei skotiaai phainei, kai hee skotia auto ou katelaben.)」と云う言葉があります。『ヨハネ福音書』はグノーシス主義の影響の大なる福音書ですが、この短い言葉のなかに、グノーシス主義の反宇宙的二元論も、人間の救済も、本来的人間としての「光の霊の破片」も、すべてが語られていると云っても差し支えありません。我らの心の奥底の本来なる「光」を信じ、永遠なる「超宇宙的光明」と救いを求めて、叡智を探求して行く実存の実践の過程に、グノーシス主義の「真実の光, Phoos Aleetheiaas」が輝くのでしょう。此の世と云う「暗闇」のなかに。
 


 

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