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白い枝の下に身を伏せ、|湿《しめ》った|苔《こけ》が肌をくすぐるのを感じながら、うっとりと|汕子《さんし》は枝の果実に見入っていた。
|泰麒《たいき》の入った実は|十月《とつき》で熟す。
十月のあとには、あの|泰果《たいか》から汕子の主である|麒麟《きりん》が|孵《かえ》るのだ。熟した実をもぐその瞬間を思うと、汕子の|身体《からだ》は涙の温度をしたものでいっぱいになる。
|嬉《うれ》しく、|誇《ほこ》らしく、あふれるような思いで|光沢《こうたく》のある金の実を見上げていたときに、突然それは襲ってきた。
汕子には最初、なにが起こったのかわからなかった。
大気がねじれる。さかまいて|壊《こわ》れる。幕を引いたように赤気が空で踊り始めた。身震いするほどの恐怖を感じて、ようやく「|蝕《しょく》」という言葉を脳裏に探し当てた。
とっさに立ち上がった汕子の足を突風がすくう。風にはけっしてそよがぬはずの白い枝が、音をたてて揺れた。
悲鳴を上げて汕子は枝にすがった。枝をつかみ、風に逆らって身を起こすと、吹き散らされて枝にからめとられた髪がむしられていく。そんな痛みに気をとられる余裕はない。守らなければ、と切迫した思いで見上げた視線の先で空気がよじれる。
「……泰麒!」
吹き寄せた音が|身体《からだ》を|叩《たた》いた。ねじれてひずんだ大気がさらに|歪《ゆが》み、歪みが枝を|呑《の》みこむのが見えた。
「やめて……!」
金の小さな実がひずみに呑みこまれる。|十月《とつき》さき、汕子が|己《おのれ》の手でもぐまでは、けっして枝を離れるはずのない実が、枝からねじ切られていくのが見えた。
「誰か!」
枝に|掻《か》き切られて血だらけになった|腕《うで》が実を追う。指先と金の実の間の距離は絶望的なまでに遠かった。
「誰か、止めて──!」
汕子の叫びは、全霊を託して伸ばされた指の先で断ち切られた。
金の実はその姿を歪みの中に沈めて消えた。
この世に生まれ、泰麒と呼んだ、そのほかに発した初めての声は悲鳴だった。|虚《むな》しいばかりの叫びだったのである。
始まったときと同じく、唐突にそれは終わった。
汕子は|呆然《ぼうぜん》と白い枝を見上げた。
そこにはもう金の光は見えなかった。たったひとつあった果実は、消えうせていた。
「汕子……!」
声が四方から響いて、多くの|女仙《にょせん》が|駆《か》けてくるのが見えた。まっさきに汕子のそばにたどりついたのは|玉葉《ぎょくよう》だった。
「ああ……汕子……」
汕子は差し出された彼女のたおやかな手にすがりついた。
最初に名を。次いで、悲鳴と叫びを。その次に汕子の|喉《のど》が発したのは号泣だった。
「なんということ」
玉葉は|孵《かえ》ったばかりの|女怪《にょかい》を抱きしめる。無残に散った髪をなで、傷だらけになった|身体《からだ》をなでた。
「よりによって、|麒麟《きりん》が実ったときに」
腕の中の女怪は絶叫している。ともすれば|十月《とつき》のほとんどを木の下ですごすほど、女怪の麒麟に対する思いは深い。それを目の前で失った痛みは、玉葉の想像に余った。
「大事はない」
女怪の背を|叩《たた》いた。
「そのように泣くでない、汕子。……必ず泰麒は探し出してみしょう」
つぶやきながら、|己《おのれ》に言い聞かせる。
「できるだけ|早《はよ》うに、そなたの手に泰麒を戻してやろうほどに」
「|玄君《げんくん》……」
声をかけてきた|禎衛《ていえい》にうなずく。
「諸国に|朱雀《すざく》を飛ばし、至急に|蝕《しょく》の方角を調べさせよ」
「かしこまりまして」
「月の出までに、ぞえ。女仙を集めて門を開く用意をさせよ」
「はい。ただいま」
女仙が方々に散っていく。玉葉は|虚《むな》しく視線を上げた。
何度見わたしても、白い枝に金の果実は|見出《みいだ》せなかった。
蝕は|黄海《こうかい》の西に起こって、東の方角へ駆け抜けていったとわかった。
|不可思議《ふかしぎ》な力に守られた|五山《ござん》の、さらに守護のあつい|蓬廬宮《ほうろぐう》の花は一花も残さずに散った。|蝕《しょく》が通過した諸国からは|甚大《じんだい》な被害が報告されたが、蓬山の|女仙《にょせん》にとってはそれは心を動かされることではない。彼女たちにとって、重要なことは|麒麟《きりん》のことでしかありえないのだった。
──問題は、蝕の|歪《ゆが》みの中に|呑《の》みこまれた果実が、どこへ行ってしまったのかということだった。
蝕はこの世と、この世ならざる世界をつなぐ。この世の外を|蓬莱《ほうらい》といい、|崑崙《こんろん》といった。一方は世界の果てに、もう一方は世界の影に位置すると伝えられる。
その真偽はともかく、それは人には行くことものぞき見ることもできない異境である。蝕と、月の呪力を使って開く|呉剛《ごごう》の門だけがそのふたつの世界をつなぐことができた。
世界は|虚海《きょかい》と呼ばれる海にとりまかれている。東へ抜けた蝕なら、|泰果《たいか》は虚海を渡って世界の果て──蓬莱に流れていったのだろう。
人には渡れぬ世界だが、女仙は単なる人ではない。玉葉の指示のもと、多くの女仙が虚海に開いた門を越えて泰果を探しにいったが、泰果の|行方《ゆくえ》は|杳《よう》として知れなかった。
──麒麟は、失われてしまったのだ。
その日から長く、蓬山の東、虚海の東をさまよう汕子の姿が目撃された。
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