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小説「駱駝祥子」の舞台

作者:未知  来源:本站原创   更新:2004-5-16 15:04:00  点击:  切换到繁體中文

 

最低気温が氷点下9度まで下がった寒い日の夕刻、北京市街北西部にある高層住宅の階段を上がり、踊り場の窓から眼下の地下鉄車両基地を眺めた。かつて、「太平湖」という湖があった場所だ。 

 中国現代文学界を代表する文豪・老舎は、1966年8月、文化大革命で紅衛兵の暴行を受けた末、太平湖に身を投じた。孫娘だけに別れを告げ、湖畔に愛用のペンを置いて。67歳だった。 

 埋め立て地の巨大な車両基地に古色が漂い、四囲からは高層建築が迫っている。 

 老舎が「駱駝祥子」で描いた「北平(北京の旧称)」の街並みも、その主人公・祥子が引く人力車も、遠い昔語りの世界になった。古い北京を懐かしむように、繁華街・王府井には、人力車を引く車夫の等身大の塑像がある。 

 「ルオトゥオ・シアンツ」(駱駝祥子)――。 

 塑像の前を通り過ぎた男性が、連れの女性に投げかけた一言が耳に入り、引き留めた。湖北省から来た26歳の青年だった。「祥子は、貧しく苦しい庶民そのもの。でも、その生き方も、考え方も好きだ」と青年は言った。 

 祥子の夢は、自分の人力車を持つことだった。その夢はいったんかなったが、すぐに兵隊に捕らえられて車を失い、隊から盗んだ駱駝を売った金を元手に再び夢に挑む。しかし、祥子は運命と自らの欲望にもてあそばれ、ぼろぼろになっていく。 

 冬の夜、祥子は、北平よりいい街はないと思った。車引きには結局、「不運」しかないとも思った。 

 老舎は、人間の弱さをさらした失敗者への愛情を、北京の街への愛着に溶かし込み、美しい悲劇を紡いだ。 

 北京・前門にある舞台付き茶店「老舎茶館」の尹識鈞・支配人は、老舎が今なお愛されるのは、「素朴な民の心」を描いたからだと語った。湖北省の青年が示した共感も、祥子が、どこにでもいる民の1人だったことに根ざしている。 

 庶民。中国での反義語は、通常、「指導者」や「幹部」だ。権力とは無縁な彼らは、おのれの不運を嘆き、権力者の腐敗に憤りながら、小さな幸せを求めている。 

 いま、北京五輪を前に自宅の強制立ち退きを迫られ、途方にくれる人が多い。勤め先の国有企業から一時帰休を言い渡された人もあふれている。建設現場で働く出稼ぎ労働者らは、人間扱いされない時すらある。彼らは「どうしようもない」と言いながら、裸電球の、うまい肉まん屋に集まり、10個約30円の湯気立つ豚肉包子(パオズ)にむしゃぶりつく。「ワンタンスープに虫が入っていた」と客が騒ぎ、店の女あるじが「何言ってやがる」とどなり返す。 

 みんな祥子だ。街の姿は変わった。しかし、北京は今も、祥子の街だ。彼らがいるから、北京は温かい。 

 王府井近くに、老舎記念館がある。50年から自殺する66年まで、老舎が暮らした家だ。四合院に、数多くの著作、遺品が残る。老舎の長女である舒済・館長(68)は、「駱駝祥子」を残した父親について、こう語った。 

 「北京のどん底で育ち、庶民のことなら何でも分かっていた。父は、骨の髄から北京人でした。北京に生き、北京に死す――だったのです」(文と写真 杉山 祐之) 

 [駱駝祥子(らくだのシアンツ)] 

 1936年夏、山東大学(山東省青島)の教職を辞し、専業作家の道を選んだ老舎の第一作。単行本出版は39年。軍閥抗争、国民党と共産党の戦闘、日本軍の侵略などが相次いだ30年代の激動下にある北京を舞台にしている。日、米、欧州各国などで翻訳され、老舎の名を世界に広めた。老舎記念館によると、日本語の翻訳だけで13種類あるという。映画や舞台劇、京劇の題材ともなっている。


 

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