孔子がある時勝母という村へ行きついて日が暮れたが、その村には宿
らなかった。また、盗泉のかたわらを通り過ぎるとき、のどが渇いてい
たが、その泉の水を飲まなかった。それは、勝母、母に打ち勝つという
ようなことは、子としての道から外れたことであり、そのような名称の
村に宿ること自体、すでに親に対して不徳義であるとしたからで、また
盗泉という賤しい名称を持った泉の水を飲むことは、高潔な心をいだく
士にとっては、はなはだ不名誉な恥ずかしいことであるとしたからだと
いわれている。(『説苑』説叢篇)
盗泉は山東省泗水県の東北にあり、古来、その故事をもって知られ、
盗泉という言葉は、恥ずべき行いのたとえにもなっている。
晉の陸士衡に「猛虎行」と題する詩があり、文選に載っているが、そ
の冒頭に「渇しても盗泉の水を飲まず」の句がある。「猛虎行」は士た
らんとする者の行途には辛苦の多いことを述べたもので、いまその詩を
あげてみると次のようである。
渇しても盗泉の水を飲まず、
熱するも悪木の陰に息わず。
悪木あに枝無からんや、
士を志すに苦心多し。
駕を整えて時命を粛しみ、
策を杖ついてまさに遠く尋ねんとす。
備えては猛虎の窟に食し、
寒えては野雀の林に栖る。
日帰れて巧いまだ建たず、
時往きて歳載ち陰なり。
崇雲岸に臨みて駭ち、
鳴条風に随いて吟ず。
静かに幽谷の底に言い、
長く高山の嶺に嘯く。
急絃には懦き響きなきも、
亮き節は音たり難し。
人生誠にいまだ易からず、
曷んぞいわん、此の衿を開くと。
我が耿介を眷み、
俯仰して古今に愧ず。
大意は、渇しても盗泉の水は飲まず、暑くとも悪木の陰にいこわない
というのは、正しい心を貫くためである。君の命をかしこんでは遠く軍
役に出で立ち、辛苦をなめるが功ならず、歳月のみは徒に過ぎゆき、時
には岸に高く上る雲、風に鳴る枝に心を傷め、幽谷の底、高山の嶺に思
いを遣るが、自分の心のはげしく高い調べは音になりにくい。人生はま
さに困難である、どうして、この遠く軍役に従う心のくるしみを打ち明
けられよう。自分の正しい心を世に行うことのできないことを思うと恥
ずかしくてならない、というのである。
陸士衡は名は機、士衡はその字である。祖父の陸遜は三国の呉の孫権
に仕えて勇名をはせ、父の陸抗も呉の名臣であった。儒学を深く身につ
け、詩文の才もゆたかであり、呉の興亡を論じた「弁亡論」、また「陸
平原集」がある。のち晉に仕えようとして、弟の陸雲(字は士竜)と洛陽
に出でたとき、人をして「呉を伐ちし役は、利として二俊を得たり」と
感嘆させた。大将軍、河北大都督となったが、罪におとしいれられて、
「華亭の鶴唳(鶴の鳴き声)、あにまた聞くべけんや」の言葉を残して死
んだ。華亭は江蘇省松江県の西、平原村にあり、祖父の陸遜が華亭侯に
封ぜられてより、世々居た所、心情思うべきものがある。弟の陸雲も相
次いで殺されたのであった。