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独眼竜

作者:未知  来源:日本ネット   更新:2004-11-16 18:55:00  点击:  切换到繁體中文

 

 唐の懿宗の末年、山東・河南の地方は大水害に見舞われたが、翌、僖
宗の乾符元年には、同じこの地方が、前年とはうって変わって大旱害に
襲われる不幸があった。しかるに州県の税の取り立てはきびしく、農民
たちはやむなくその妻を売り、子を売って、僅かに苛税に堪えていた。
だがしかしこれとても限界があった。
 
 山東の一角に燃え上がった農民起義の火は、ついに曹州の出身、一代
の風雲児黄巣を蹶起させた。黄巣はそれにより早くすでに乱を起こして
いた。同じく山東の王仙芝と手を握り、各地を転掠するごとに来り投ず
る者たちを呑み、急速にその兵力を増強していった。やがて兵数十万を
称するに至った巣は、広明元年十一月、洛陽を抜いて、怒濤の進撃を続
け、ついに唐の都長安を陥れ、衆民の歓呼のうちに長安に入城し、自ら
斉帝と号し、大斉国を樹てた。
 
 しかし一方、興元(陝西省)から成都(四川省)へと乱を避けていた僖宗
の側にも着々と反撃の態勢は進んでいた。すなわち唐軍の猛将李克用の
登場である。克用は突厥の沙陀部出身で、胡地にひそんでいたが、黄巣
討伐に起用され、四万の兵を率いて河中(山西省)に進んだ。この克用は
一方の眼が眇であったため「独眼竜」といわれた。
 
 
「李克用少なくして驍勇、軍中号して李ア児という。其の一目眇なり。
 其の貴となるに及ぶやまた独眼竜と号す」     (「五代史」唐記)
 
 また
 
「僖宗の時黄巣叛を造す。李克用之を破る。時人其の一目眇にして勇有
 るをもって《独眼竜》と号す」             (「唐書」)
 
 とあるのをみても、相当の畏怖と尊敬の念をもってこう呼んでいたわ
けである。
 
 
 さてこの独眼竜・李克用の軍はすべて全身に黒衣を纏っていたので、
巣軍はそのすさまじい進撃に「鴉軍来る!」といって恐れおののいたと
いう。しかし衰えたりとはいえ、未だに猛威を振るう巣軍は、山東・河
内方面の唐軍を席捲しているので、克用は五万の兵を発して自ら唐軍の
統帥として山東に入り、黄河を越える巣軍に一大鉄槌を加え、ついに瑕
丘(山東省滋陽県)で決定的に巣軍を潰走させた。ここにさしもの起義軍
も伐ち果され、黄巣もまた敗死してしまった。
 
 克用は、その功により隴西(甘粛)郡王に封ぜられたが、巣軍の起義に
よりまったくその威令を失った唐朝である、克用と仇怨啻ならぬ朱全忠
(名は温。はじめ巣軍に投じ、勢い傾くや朝に帰順す)との両虎は、朝政
の実権をめぐって激しく対立したが、やがて朝政は全忠の専らにすると
ころとなり、全忠が哀帝の位を奪って自ら帝位につき、国号を梁と号す
るのだが、独眼竜・克用は失意のうちに世を去った。
 
 
「独眼竜」は隻眼で勇ある人、転じて隻眼高徳の人をもこう称するが、
わが国では伊達政宗の独眼竜が有名である。
 
(なお全忠の樹てた後梁は、克用の子存勗が倒し、後唐を樹てた。)
 
 


 

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