「いいえ、王様、
北の国々がなんで一宰相の昭奚恤などを恐れまするものか。
まず、お聞きくだされませ。
もとより虎は百獣の王、
ほかの獣を見れば、
ただちに取ってこれを食らいます。
あるとき、この虎が狐をひっとらえたと思しめせ。
とそのとき狐が申しましたそうな。
天帝はこの狐をば百獣の長と定められている、
よって、もしこのわしを取って食らうなら、
天帝の命にそむくものよ。
もしおぬしがそれを信じぬなら、
まあわしのあとについて来られい、
わしの姿を見て逃げ出さぬ獣は一匹もないぞ。
それを見れば得心がいこうよ……
と申しましたげな、
なるほど道理じゃ、と虎は思いました。
さて、狐が先にたち、
虎はそのあとについてまいりました。
一匹の獣に出あいまする。
そやつはとんで逃げました。
つぎの一匹、これもふるえあがって逃げだす。
……はて、なるほど狐をおそれて逃げるわい、
と虎は思いこんだそうでござります。
その実、獣どもをおそれ走らせたのは、
狐の後ろにいる虎の姿であったのでござりまするがな。
さて事はおなじでござりまする。
北の国々が、
なんで昭奚恤ずれを恐れまするものか。
恐れますのは、
その背後にある楚国の軍勢、
すなわちわが君の強兵でございますぞ。」 (「戦国策」楚宣王)
戦国時代のある日のことであった。楚の宣王が群臣にむかって、
「北方の国々は、
わが宰相の昭奚恤を恐れておるかな?」
とたずねたとき、江乙というものが、この答えたという。これが「虎
の威を借る」とか、「虎の威を借る狐」とかいうことばのはじまりとな
った。小人が権力をかさに着ていばりちらすこと、また、その小人のこ
とを、これらのことばであらわしている。
ところがである。まだあるのだ。この話だけだと、昭奚恤は君側の侫
臣で、江乙は厳然たる大忠臣みたいだ。その江乙が問題なのだ。彼はも
と魏の国につかえて、魏の使いとして楚にきた男である。それがそのま
ま居ついて、楚につかえるようになった。うまいこと取り入って、王の
側近になったらしいが、そのあいだも、魏と内々で連絡していたけはい
が濃いのだ。ところがその彼にとって、目の上のこぶになるのがいる。
昭奚恤である。昭家は楚の王族の出で、代々の重臣である。そして昭奚
恤は、大岡裁きに似た逸話があるように、ただのお坊ちゃん宰相ではな
いらしい。しかもその奚恤は、江乙が魏に内通しているとにらんでいた
らしいのだ。これでは、江乙が昭奚恤をじゃまにするのは、まったく当
然だろう。
江乙は、やっきになっていた。「戦国策」でもわかるように、彼はな
んとかして昭奚恤を蹴おとそうと力をつくしている。「虎の威を借る狐
でございます」、「奚恤は魏から賄賂をとりました」、「わたくしを除けも
のにいたします」……あらゆる機会をとらえて、宣王の耳に悪口をつぎ
こんでいた。なんのことはない、江乙こそ、「虎の威」を借りたくてウ
ズウズしていたのだ。この話をしたのも、そのためなのだ。隠すよりあ
らわるるはなし、というものである。
そして、これが戦国というものだろう。一皮むいてみれば、やさしげ
な羊の皮の下に、狐がいるか、狼がいるか、虎がいるか、わかったもの
でない社会、はてはどれが狐で、どれが虎かもわからなくなる世の中…
…、いや、これは戦国だけではないかもしれなかった。