孔子は、両親の“野合”の結果生れた子だった。則ち、両親は“天”
も祭らずに男女関係を結び、“祖宗の霊”にも告げずに孔子を生んだの
だ。
――自分は禽獣同様の交わりから生れた子だ。
このインフィリオリティー・コンプレックスを克服するためには、正
常な夫婦関係から生れた人間以上に、道徳的に完全な人間にならねばな
らない。孔子の異常なまでに執拗な自己修業は、このような決意の下に
始められたのだった。
が、道徳的に完全な人間であろうとして、父母の行為を否定すれば、
“不孝”という罪を犯さねばならず、“不孝”という罪を避けて父母の
行為を容認すれば、“背徳”という行為を是認することになる。近代の
知性には、当然二者択一を強要するこの窮境にあって、孔子はしかし、
まことに独自な態度に出た。というのは、道徳は道徳として敬して、親
は親として敬して、親と道徳との関係については関与しない、という処
置をとったのだ。言わば、自身だけは如何なる対象に対しても正しくあ
りたい、という自己中心主義を堅持したのである。
この結果、孔子は、当世の道徳と人間精神の対立という問題を見喪っ
て、倫理観に新たな創造を加える契機を逸し、“天”や“祖宗の霊”や、
“天”によって人間に課された道徳律等、人間の意志を超越して存在す
る一切の権威に、従順にぬかずくこととなったのだった。従って、孔子
の“教え”といわれるものは、これらのものがどうして“人間の意志を
超越”していながら、しかも“権威”であるか、という秘密を追求する
ものではなくて、如何にしてかかる“権威”に服するか、という実践論
に終始せざるを得なくなったのである。
――子は怪・力・乱・神を語らず。
(子不語怪・力・乱・神)
(「論語」述而篇)
(先生は、怪異と武勇と世の乱れと、神業については語らなかった)、
とあるように、“力”と“乱”はその文治思想に基づくが、“怪”と
“神”という超越者には、順う以外の態度を採っていない。しかも、孔
子は、このような態度こそ“知”(叡知)なのだ、と確信していた。
――樊遅知を問う。
子曰く、民の義を努め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。
(樊遅問知。子曰。務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。)
(「論語」雍也篇)
(弟子の樊遅が“知”について尋ねた。
子がいうには、己れ自身の為すべきことだけに努力し、
鬼(人間の霊魂)や神(天に在る超越者)は敬しつつ遠ざけておく、
こうすれば“知”といえるだろう。)
「敬して之を遠ざく」とは敬って狎れ親しまぬこと、要するに神頼み
などせぬことを意味し、ここに孔子の、超越者の客観的な公正さに対す
る絶対的な信頼をうかがわれる。今日「敬遠」(敬して遠ざく)という言
葉が、「憚って避ける」という意味に用いられていることを知ったら、
おそらく孔子は驚倒するであろう。