戦後始めて日本に来た京劇の一行が、「覇王別姫」という芝居を見せ
た。覇王とは西楚の覇王と称した項羽のことであり、姫とは愛人虞姫の
ことである。つまりこれは「四面楚歌」を劇化したものなのだ。
この芝居を見て、英雄項羽はわが国の義経のような存在ではなかった
か、と思われた。英雄の末路に人間的な哀愁を感ずるというのか、とも
かく項羽は中国の民衆に愛されてきた男なのであろう。
文献の上でも項羽はしばしば問題にされて、その人物評は相当多いの
である。ここに紹介するものは、晩唐の詩人で、杜甫に対して小杜とい
われた杜牧の詩であるが、項羽を詠じた詩の中でも特に有名なものであ
る。
勝敗は兵家も期すべからず、
羞を包み恥を忍ぶはこれ男児。
江東の子弟才俊多し、
捲土重来いまだ知るべからず。
(たたかいに敗るる恥を堪えしのび、
いまひとたびの心あらなむ。)
これは「烏江亭に題す」という詩である。烏江(安徽省内)は項羽が亭
長から、「江東に帰れ」と勧められた所であるが、しかし項羽は「敗戦
の身で江東の父兄に会わせる顔がない」と言って、自らの頸を刎ねた所
でもあった。
項羽の死後千年の月日を距てて、今や杜牧が烏江に臨む駅亭(宿場)に
佇んでいる。彼は項羽の人となりをしのび、その早かった死(三十一歳)
を惜しんだ。項羽は単純で激しい気性の人であったが、一面虞姫との別
離に見えるような人間的な魅力があった。杜牧は考えた。「江東の父兄
に対する恥を堪え忍べば、優れた子弟が多い所だから、挽回の可能性が
あったのではないか。」 項羽を愛惜する情が溢れている、といえよう。
しかし項羽を批判する声も多いのだ。まず唐宋八家の一人王安石は、
杜牧の考えに反対する詩を詠んだ。彼は項羽の頽勢がどうしようもなか
ったと言い、「江東の子弟今在りといえども、あえて君主のために捲土
し来らんや」(もはや項羽のために捲土重来などしない)と歌った。
司馬遷も「史記」のなかで、「項羽は力を頼み過ぎた」と述べている
し、やはり、唐宋八家の一人曾鞏も同じようなことを言っている。
とまれ、項羽は賛否両論相半ばする問題の人物であったことが判る。
「捲土重来」という言葉は杜牧の詩から生まれ、「土煙を巻き上げて
重ねて来る」ことから、転じて「一度失敗した者が再び勢力を盛り返す」
ことを意味する。元来は「巻土重来」と書く。