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酒は百薬の長

作者:未知  来源:日本ネット   更新:2004-11-15 20:32:00  点击:  切换到繁體中文

 

 「酒は百薬の長」――われわれアルコール党には、まことにありがたい
ことばである。この出処は、「漢書」の「食貨志」で、王莽が下した詔の冒
頭の一句、「夫れ塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の
本」から出ている。
 
 前漢と後漢の間に、十四年間つづいた新という国がある。この詔は新
の皇帝の王莽が経済政策の徹底を期したもので、その発端はやはり酒と
奇縁がある。しかし些か血なまぐさい。――
 
 
 キリスト教の始った前漢の元寿二年、哀帝が死ぬと、その外戚から朝
廷を追われていた王莽が再び大司馬(軍・政の大権をにぎる最高官)に帰
り咲いて幼い平帝を立てた。当時「民に七亡ありて一得なし、民に七死
ありて一生なし」といわれるほど社会は窮乏していた。王莽はやがて自
分の娘を平帝の后としたが、不老長生の薬酒である椒酒を献じて、十二
歳の平帝を毒殺すると、別に操縦しやすい二歳の幼君を立て、みずから
仮皇帝と称し、ついに野望を達して皇帝となったのである。
 
 かれは儒教の聖人周公を理想として、「周礼」に基づく盛度――「聖制」
を地で行おうとした。そこで、「五均」(五大都市に官を設け商工業と物
価の統制を取り締るもの)、「シャ貸」(国家からの金貸・融資)を行い、
貨幣を鋳造し、山林や河沼を管理し、また、塩・酒・鉄を政府事業にし
た。これを「五均六幹」といい、監督官を置いた。
 
 ところが郡県の役人たちは、洛陽など大都市の大商人たちと組んで、
この制度を悪用し、金儲けを計ったため、「郡県(の役人)と姦をなし多
くの空簿を張り」(空帳簿を作り)、横流しにし、「百姓(人民)はいよいよ
病む」という反対の結果になった。
 
 そこで、王莽は「民の苦しみを知って」、再び前記の詔を下して、五均
・六幹は人民の所得をならし、有無を通じて人民の用に備えるものであ
ることの趣旨徹底を計った。だが人民の生活はますます悪化し、「赤眉」
や「緑林」の乱が起り、ついに地皇四年、有名な昆陽の戦いで失脚してし
まった。そのときかれは、やはり酒ばかり飲み、周礼や孔子の言葉を口
ずさみ、それにあやかって災難除けの奇跡があらわれるのを待ったが、
ついに全身を切りきざまれて死んだのである。
 
 
 「酒は百薬の長」(酒はどんな薬よりも心身に利く)の出処にまつわる話
は、以上のように、あまりきいて楽しい故事ではない。しかしその血は
洗われ忘れられて、後世の酒のみには便利な言葉となったわけである。
因みに酒の異名の「美禄」(酒は天下の美禄――酒は天から賜わった手厚
い封禄である)の出処も、同じ「漢書」の「食貨志」である。
 
 日本では、「酒は百薬の長」の逆をいく「酒は百毒の長」という言葉がで
きた。その出処は「徒然草」で、こう書かれている。
 
 「酒は百薬の長とはいえ、
  よろずの病は酒よりこそ起れ、
  憂いを忘れるといえど、
  酔いたる人ぞ過ぎしうさをも、
  思い出でて泣くめる。……」
 
 もっとも中国にも、儀狄がはじめて酒を作って禹王に献じたところ、
禹王は後世酒が害をなすことを憂えて、彼をうとんじたという話がある
が、これは伝説である。
 
 


 

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