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道聴塗説

作者:未知  来源:日本ネット   更新:2004-11-16 18:54:00  点击:  切换到繁體中文

 

「さきの道で聞いたよい言葉(道に聴き)を心に留めて自分の修養のか
 てともせずに、後の道ですぐほかの人に説いて聞かせる(塗に説く)
 ことは、自分からその徳を捨てるようなものだから、善言はすべて
 心によく留め、自己のものとしなければ徳を積むことはできない。」
 
 孔子は「論語」の「陽貨篇」でこういましめている。
 
 身を修め、家をととのえ、国を治め、天下を平らげ、天の道を地上に
行うことを理想とした孔子は、そのためには人々が厳しく自己を律し、
仁徳を積み、実践して行くことを教えた。そして徳を積むためにはたゆ
まぬ努力が必要であることを「論語」でさとしている。
 
 
 後漢の班固の撰した「漢書」の「芸文志」には、
 
「およそ小説というものの起りは、君主が下々の風俗を知るため、小役
人に命じてのべさせたことに始まる。つまり町の話や、ちまたのうわさ
は、道に聴いても塗に説くやからが作り出したものだ。」
 
 と書いてある。小説という言葉はこの意味から、もとは《稗官(小役
人のこと)小説》といっていたが、のちにただ小説といわれるようにな
った。
 
 
 また周代の荀子の書いた「荀子」の「勧学篇」には、
 
「小人の学問は、耳から入ってすぐ口から抜け、少しも心に留めおくこ
とをしない。口と耳との間には、約四寸の距離があるが、こればかりの
距離で、どうして七尺の身体を美しくするに足りようか。むかし、学問
をした人は自分のためにしたが、いま学ぶ人は、学んだことをすぐ人に
告げ、自分のためにしようとはしない。君子の学は自分自身を美しくす
るのに反し、小人物の学は人間を動物にしてしまう。だから問われもし
ないことを告げる。これをやかましいといい、一を問われて二を告げる
のをおしゃべりという。どちらもよくない。本当の君子は、問われなけ
れば答えず、問われればそれだけ答える。」
 
 として、多言をいましめている。
 
 
 いつの世でも、右から聞いたことを、すぐ左へ伝えるおしゃべりや情
報通が多い。しかも口から口へ伝わるうちに、だんだん尾ヒレがついて
くる。こんな輩は世のためにならぬと孔子・荀子はいましめている。
 
 また、自分の学のあるところをひけらかす者、いわゆる衒学――ペダ
ントリーも君子としてはつつしむべきだというのである。
 
 


 

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