晉の初めの頃、孫楚という男があった。字は子荊と言って、文才豊か
で衆にぬきんでていた。父も祖父も相当な高官に進んだ家柄に生まれた
が、郷里では一向にパッとしなかった。ある時、前の人材登用官である
大中正が孫楚の友人の王済に、楚の人物について尋ねたことがある。そ
れに対して王済はこう答えた。
「あの男は、あなたが直接ご覧になったところで、
判るような人物じゃございません。
私がひとつ言ってみましょう。
楚という男は、天才英博、もの凄くずば抜けていて、
他人と一緒くたには出来ない、と言った具合ですかね。」
当時は老荘の学が盛んであり、隠逸を求める傾向が強く、世俗の道徳
名聞を軽視して老荘の管理を談ずることが重んぜられ、これを清談と称
して士大夫の間に流行し、その最たるものに阮籍・稽康らの竹林の七賢
というグループがあった。孫楚も若い頃、そういった風潮を慕って山林
に隠れようとしたが、四十過ぎてから石苞の下で参軍をつとめ、石苞の
ために、呉主孫皓に宛てた投降勧告文などを作っている。のちに馮翔の
太守となって元康三年に卒したと言うから、六十にはなっていたに違い
ない。
その孫楚が若かりし時である。俗世を離れて山林中に隠れようとしき
りに思い、親友の王済に胸中を打ち明けた。その時、「石に枕し、流れ
に漱ぐ」、つまり石を枕にごろっと横になり、谷川のほとりで口を漱ぐ
ような生活を送りたいと言うところを、間違えて「石に漱ぎ、流れに枕
す」と言ってしまった。王済はこれを聞きとがめて、
「流れが枕に出来るのかね、石で口なんかすすげるのかね?」
と言って笑った。すると、孫楚はすかさず答えたものである。
「流れに枕するというのは、きみ、昔の隠者許由のように、
つまらんことを聞いたときに耳を洗おうとするのだし、
石に漱ぐというわけは、歯を磨こうとするのさ。」
この話は「晉書」(孫楚伝)、「世説新語」の中にあるが、負け惜し
みの強いことを言う言葉として古来もてはやされ、「さすが」と言う言
葉に「流石」と充てるのも、おそらくこの故事から来たものであろう。
夏目漱石の号もここに由来している。