前漢の末、外戚の王莽は権をほしいままにし、平帝を弑して儒子嬰を
立て、さらに自ら新皇帝と称したが、ついに国を奪って国号を新と改め
たのは西暦九年のことであった。しかし政治に失敗したため、各地に叛
賊が横行し、なかでも緑林の兵や赤眉の賊はその大なるもので、天下は
大混乱におちいった。
この時にあたって起こったのが、のちに後漢の光武帝となった劉秀ら
の軍で、方々に王莽の軍を破り、二十三年には景帝の子孫である劉玄を
立てて皇帝とし、ここに王莽をほろぼして再び漢の世にもどしたのであ
った。
しかし、王莽がほろびたとはいえ、天下が静まったわけではない。各
地に群雄割拠し、赤眉の賊も未だ盛んであり、劉秀は劉玄の下に大司馬
として軍事に寧日がなかった。なかでも邯鄲に拠った王朗は、もと易者
であったが、われこそは成帝の子劉子興なりとでたらめを言い、兵を大
いに集めて天子と称し、勢い当たるべかざるものがあったので、二十四
年、劉秀は軍を率いて征伐に向かったのである。
ところで、河北省の上谷の太守耿况は、前々から劉秀の人格を慕って
いたので、子の耿エンを劉秀の麾下につかせようと思った。耿エンはこ
の時二十一歳、俊敏にして思慮深く、しかも兵法が好き、もとより喜ん
で劉秀の下へ急ぎ向かった。
旅だった耿エンが途中まで来ると、王朗が邯鄲で兵を起こして天子と
称しているという情報が入った。すると、手下の孫倉と衛包の二人は急
に気が変わって、
「劉子興は成帝の子で、漢の正しい血統の方だ。
この方をさしおいて一体どこへ行こうとするのだ。」
と言い出す始末。耿エンはカンカンになって二人を引っ張り出し、剣
を抜いて言った。
「王朗というのはもともと名もない賊だ。それが劉子興といって皇子
の名を詐称して乱を起こしているのだ。わしが長安に行って来てから、
上谷・漁陽の軍勢を駆って大原・代郡方面に出て、よりすぐりの突撃隊
をつっこませ、王朗の軍のような烏合の衆を踏みにじらせたならば、枯
れ木をへし折るようなもので、王朗を捕虜にするに決まっている。おま
えらが物の道理を知らずに賊の仲間になったら、たちまち敗亡して一族
皆殺しの目にあうぞ。」
しかし、二人はとうとう王朗の方へ逃げ去ってしまったので、耿エン
はしいて止めようともせず、劉秀の下へと急いだ。そうして劉秀を助け
て数々の武勲を立て、のちに建義大将軍に拝せられたのであった。
烏合の衆とは、元来烏が集まったような統制の取れていない群衆を指
して言うのであって、『後漢書』には王朗を指した言葉として各所に見
える。「文選」に見える干宝の「晉紀総論」にも、晉を大混乱に陥れ東
遷させるもとをなした漢王劉淵らを称して「新起の寇、烏合の衆」と言
っており、その烏合の衆に天下が引っかき回されたのは、政治が乱れて
いたからだというのである。その注に曾子の言葉をあげて、「烏合の衆
ははじめは相歓ぶが、後には必ず相咋らう」とあり、また、「部分なき
なり」つまり寄合世帯のことだとある。