『三国志』に出て来る蜀と呉を亡ばした魏は、天下を統一して国号を
晉(西晉)と改め都を洛陽に置いた。一方亡んだとはいえ、呉のかつての
都である建業(揚都=南京)は揚子江にのぞみ、後ろに山をひかえ、風光
のすぐれた繁華な都城、依然として江南の中心地であった。
そのころ、洛陽の都に★仲(ゆちゅう)という詩人がおり、絢爛たる揚
都の賑わいと風景をたたえる詩を作った。その中に「三二京、四三都」
という文句があり、この言い廻しが特にすばらしいと評判になった。都
の人々は、みんな争ってこの詩を写生し、壁にかけて鑑賞した。このた
め、紙が足りなくなり「洛陽の紙価貴し」という状況を呈した。
だが、その詩を見た謝太傅(太傅とは太師、太保とならぶ三公の一つ)
という高官、せせら笑っていった。
「なんだ、あんな詩なんか、
まるで屋根の下に、また屋根を作ったようなもので、
同じことを繰りかえしたに過ぎんじゃないか、全く下らん。
あんなものに騒ぐ奴らの気が知れん。」
この話は『世説新語』に載っている。
もう一つの話。
これは北斉(南北朝の中の北朝の一国)の顔之推という学者の選に成る
『顔子家訓』の序に、一篇を立てて書いてあるものだが――。
「晉以来、訓詁の学という儒学の研究方法がもてはやされ、各学者
は争って、むかしの学者の著書を現代文に書き直すことをやって
いる。だが、これらの学者の書いているものは、みんな理論の立
てかたが重複しており、同じことの繰りかえしに過ぎない。まる
で屋根の下に、もう一つ屋根を作り、床の上にまた床を張ったよ
うなものだ。全くムダな労作ばかりで、見るに値しない。」
以上のように、原点はいずれも「屋下に屋を架す」となっているが、
いまの日本では、通常「屋上屋を架す」という言葉が使われている。
いつごろから、こう変わったかは知らないが、おそらく頭の良すぎる
(?)理屈っぽい人が現れて、考えたのだろう。
「屋上屋を架すというのは、どう考えてもおかしい。第一、家を建
てるのに、一旦造った屋根の下に、また屋根を造るなんて、技術
的にムリだ。むしろ、屋根の上に屋根を張る方が、実際にはやり
易い。現に、奥州平泉の中尊寺の金色堂は、その外側を鞘堂とい
う保護建物で、スッポリ包んでいる。だから、屋上屋を架すとい
う方が、重複するという意味を表すために論理的かつ実際的だ。」
ともかく「屋上屋を架す」が日本では使われている。もし、誰かが考
えて、こう変えたとすれば、その変え方もまた「屋上に屋を架す」たぐ
いともいえよう。