漢王劉邦(後の高祖)が天下を統一するには、幾多の苦難をなめなけれ
ばならなかった。なんと言っても楚の項羽は強敵であり、しばしば窮地
に追いこまれたのである。
それは漢の三年のことであった。漢王はケイ陽(河南省ケイ陽県)に陣
取って、項羽に対抗していた。前年、北上する楚軍をここで食いとめて
から、漢王は持久戦を計ることにした。それにはかんじんの食糧を確保
しおかなければいけない。そこで輸送路を作ることに心砕き、まず道の
両側を塀で囲い、その道を黄河に続けて、ケイ陽の北西に当る河畔の米
倉から運んで来るようにした。
しかしこの輸送路は項羽の攻撃の的になり、漢の三年には幾度も襲わ
れて強奪された。漢軍は食糧が乏しくなってしまい、重大な危機に見舞
われたので、漢王はやむなく講和を申し入れて、ケイ陽より西の方を漢
として認めてもらうよう願い出た。項羽もこの辺で和睦したいと考え、
そのことを亜父(父に亜ぐ者)として一目おいている范増に相談した。し
かし范増は反対した。
「それはいけません。今こそ漢は御しやすい時です。
ここで討ち取らなければ、必ず後悔しますぞ。」
この反対にあって、項羽もその気になり、急にケイ陽を包囲した。さ
あ困ったのは漢王である。しかしここに陳平という人物がいて、一策を
計ることになった。陳平はかつて項羽の臣であったが、後に漢王の下に
走った人で、智略にすぐれていた。彼は項羽の気短かで早合点する気質
を身をもって知っていたから、項羽と范増の間を割けばよいと考えた。
まず部下の者をやって楚軍の中に「范増は論功行賞のないことを怨み、
項羽にはナイショでひそかに漢と通じているのだ」というデマを飛ばさ
せた。
単純な項羽はそれだけで動揺し、今度は范増にナイショで、講和の使
者を漢王の所へ寄こした。陳平は張良ら漢の首脳とともに、慇懃丁重に
使者を迎えた。また牛や羊や豚の肉をまぜた飛び切り上等の料理を出し
て厚くもてなした。そして何げなく、
「亜父はお元気ですか」と聞いた。
使者は第一に范増のことを聞かれたので、いささかむっとして、
「私は項王の使者として参ったのです。」
と言い返した。すると陳平はわざとびっくり仰天して、
「なあんだ、項王の使者か。
私はまたすっかり亜父の使者だと思っていたのに。」
陳平はいまいましそうに一旦出した料理をしまわせ、お粗末な食事に
変えさせて、そのまま退出してしまった。
この事を聞いてカッとなった項羽は、その鉾先を范増に向け、漢と内
通しているに違いないと判断し、范増に与えた権力を奪ってしまった。
范増は激怒した。
「天下の大勢は定まったも同然ですから、王御自身でおやりなさい。
私は骸骨を乞うて民間にうずもれることにしましょう。」
項羽は直ちにこれを認め、愚かにも陳平の策略にかかって、唯一の智
将を失った。范増は楚都彭城(江蘇省徐州)に帰ろうとしていたが、途中
激怒が過ぎたのか、背中に疽(悪性のはれもの)ができ、七十五歳で死ん
だという。
以上は普通「骸骨を乞う」の出典と見なされる『史記』の「項羽本紀」
によったものだが、原文は「骸骨を賜いて卒伍(平民)に帰せん」となっ
ている。「乞う」という文字が見えるのは、『晏氏春秋』や『史記』の
「平津候伝」などであるが、ここでは不問にふしておく。
「骸骨を乞う」というのは、自分の一身は主君に捧げたものだが、そ
のムクロを自分に下げ渡して欲しい、ということで、結局「老臣が辞職
を乞うこと」「役人が辞職を願い出ること」を意味する。