唐の都長安は、いま駘蕩たる春をおくって、風薫る夏をむかえようと
していた。その一日のこと。太液池の蓮花がひらきましてございます、
というしらせに、大唐の君主、玄宗皇帝は、妃や官女をしたがえて、そ
の池のほとりにでた。
池をおおう、蓮の丸葉のさわやかな緑。そして、朝露をうけた淡紅や
白の蓮花は、まるで夢幻のもののように美しかった。このとき皇帝は、
かたわらの妃を指さしながら、左右のものにこう語った。
「どうじゃ、池の蓮の美しさも、
この言葉を解する花(解語の花)にはおよぶまいが。」
いかにも、いかにもと、左右の官女はおそれいって、ほめそやし、ゆ
ったりと美しい妃は、花のほころぶように微笑んだ…(「開元天宝遺事」)
この美しい妃が、名だかい楊貴妃である。さきの年、玄宗は驪山の湯
泉宮にいったとき、自分の子寿王の妃だった彼女を見そめた。彼はがま
んがならなかった。とうとう彼女を寿王からひきはなし、自分の後宮に
入れることにしたのである。思いのかなった玄宗は、もう政治にみむき
もせず、楊貴妃だけにうちこんでいく。「春宵はなはだ短く、日高うし
て起く」というぐあいであった。まったく、うれしくてならなかったの
だ。さてこそ、どうだ、うちの妃は美人であろうといったのである。こ
ののち玄宗は、楊貴妃をよろこばせるためだけに、珍果茘枝を遠い遠い
嶺南からとりよせるようなことをする。味の変り易い茘枝を瑞々しいま
まとどけるため、早馬にのった使いが、乗りつぎ乗りつぎ、夜を日につ
いで駆けた。馬がたおれ、また坑におちて死ぬものも数多かった。諸事
このとおりとなった。貴妃の親戚というだけで、楊家の一族は高い位に
つく。それはやがて安祿山の反乱となり、楊貴妃が、怒った兵士たちの
要求によってくびり殺される、あの馬嵬の悲劇につづくのである。そし
て、位を退いて上皇になった玄宗は、死ぬまで貴妃を恋慕ったという。
その治世の前半二十数年を「開元の治」とよばれるほどによく治めて
名君とたたえられた玄宗は、このように終りを完うしなかった。楊貴妃
を得るあたりから、一転して乱れだす。暴君ではないけれど、まったく
だらしなくなるのである。名相や諫臣にいかめしくとりまかれ、名君と
してうごき続けること二十余年、彼の中の凡人がもうとてもたえられな
くなったのだろうか。ともかく、さまざまな要素をもった生涯である。
それは悲劇であるか、喜劇であるのか。玄宗と貴妃との仲を美しい悲恋
と見る人もあろう。また、「どうかね、この美しさは!」とやにさがる姿
を笑うのも、後人の自由というものである。しかし、茘枝を運び、戦乱
をうけた人々には、それはたしかに悲劇であったろう。
ともあれ、玄宗と楊貴妃が生みだした、かずかずの話やことばの中か
ら、この「解語の花」も生き残ってきた。ものを言う花、つまり美人の
ことをさす。この花は季節をとわず、四六時中存在する。いつ目の前に
あらわれ、どんな結果をうむかもしれない。