「芸は身を助く」という諺があるけれど、これは「芸」が「身」ばか
りでない、その主君・朋輩の危険まで救ったという話。またもうひとつ
ひねくっていえば「馬鹿と包丁は使いようできれる」、下らん人間がひ
ょんなことで、とんでもない役に立ったという話と解してもらってもよ
い。
さてその話というのは――
そのむかし秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙と列国の抗争華やかなりし戦
国時代も早やなかばをすぎた頃のことである。斉の王族のひとりで、薛
の地に封ぜられた靖郭君田嬰の子供に孟嘗君田文という人がいた。田嬰
には四十余人の子供があり、田文は身分の低い妾の生れ。しかも当時の
俗説では「五月五日に生れた子供は父母に仇をする」といわれた五月五
日の生れで、父からもはじめはいい顔をされなかったが、実は中々の才
物で、やがて父の後を継いで薛の城主になると、善政おさおさ怠りなく
、ことに莫大な財産を惜しみなく投じて、幕下に天下の人材を集めにか
かったので、一時孟嘗君のもとに身をよせた食客は何千という数であっ
たといわれる。食客の面々いずれもわれこそはと自信たっぷりな天下の
豪傑どもだが、中にはこの話の主人公のように狗盗(こそ泥)の名人や、
猫八まがいの声色屋で、朋輩連中から白い眼で見られる男もまじってい
た。
そのうちに孟嘗君の人物名声を聞き知った秦の昭襄王が、孟嘗君を自
国の宰相に招聘したいと申し出る。孟嘗君は周囲の人の反対もあって一
時は行き渋ったが、自分が秦の宰相になるのは母国斉の為にもなる事と
覚悟を決め、えりすぐった食客の何人かを引きつれて秦の国に赴き、高
価な狐白裘(狐の白い脇毛の皮衣)を手土産にして昭襄王に目通りした。
王は約束に従って宰相に任命するつもりでいたが、
「斉の王族の血筋の者を宰相にするのは秦の不為。」
という反対が出て約束は一時とりやめ、そうかといって孟嘗君をこの
まま帰せば、王の仕打ちに怨みを含んで秦に仇するは必定というので、
よりより孟嘗君を闇に葬る計画が持ちあがってきた。
その計画を察した孟嘗君は、頭を絞ったあげく、王の寵姫に泣きつい
て帰国のとりなしを願いでると、
「とりなしてあげてもいいけど、
お礼は王様へのお土産と同じような狐白裘でなければ嫌。」
という無理難題。孟嘗君にしてみれば高価な狐白裘をそうたやすく二
枚も手にいれるあてはないので閉口していると、それをきいた食客の中
からのこのこまかり出たのが、あの狗盗を売り物の男。見事に秦王の宮
中に忍びこんで献上した狐白裘を盗み出してきた。そうとは知らぬ寵姫
は大喜びでそれを受けとり、昭襄王を口説いて孟嘗君の帰国を承知させ
てしまった。
孟嘗君の一行は、愚図愚図していればまた危険と、即日秦都咸陽を脱
出して国境の函谷関へ向かう。一方、昭襄王は孟嘗君の帰国を許したこ
とに後悔のほぞをかんで、追手の兵を差しむける。
孟嘗君の一行が函谷関についたのは、まだ夜明け前。この国の掟で関
の門は一番鶏が鳴くまでは開けられない。愚図愚図していれば追手に追
いつかれる。一行が青息吐息でいると、こんどは食客の中から別の男が
のこのことまかり出た。あの猫八まがいの声色屋である。自信ありげな
男の姿がすたすたと暗闇の中に消えたかと思うと、まだ夜明けには間が
あるというのに、なんと爽やかな一番鶏の鳴き声。それにさそわれてか
ほかの鶏までがいっせいにときをつくる。ねぼけまなこの関門の番卒た
ちが、なかばいぶかしげに大門の扉をあけるのを待ちかまえて一行は難
なくそこを通りこし、あとは馬に一鞭、闇に紛れて脱出に成功した。
昭襄王の追手が関についたのは、そのわずかに後の事だったという。
清少納言の、「夜をこめてとりの空音ははかるともよに逢坂の関はゆる
さじ」はこの「鶏鳴」の故事を引いたものである。