「去る者は日に以て疎し」とは、死者は日がたつにつれて、だんだんと
忘れられていくことであり、親しい間柄だった者も、一たん遠ざかれば
疎遠になってしまうことにいわれる。
この語は、「文選」の雑詩のうちにある作者不詳の古詩十九首の第十四
首の冒頭に見える。その第十四首というのは、すなわち次にかかげるも
のである。
去る者は日に以て疎く、
来たる者は日に以て親し。
郭門を出でて直視すれば、
但見る丘と墳とを。
古墓は犂かれて田と為り、
松柏は摧かれて薪と為る。
白楊には悲風多く、
蕭蕭として人を愁殺す。
故の里閭に還らんことを思うも、
残らんと欲するに道の因る無し。
死んでしまった人は忘れられていくばかりだ。
生きている人は日ごとに親しくなっていく。
(この来者云々は詩句の体裁を整えるために置いたものだろう)
町の城門を出て郊外に目を向ければ、
かなたの丘とその下に土墳が見えるだけだ。
しかも古い墓は耕されて田になり、
その土墳も跡形を止めず、
墓の辺に植えられていた松柏も薪になってしまったらしい。
白楊の葉をさらさらと裏返して
悲しげに鳴らしながら過ぎゆく風は、
さむざむとして魂の底まで食い入る。
それにつけても故郷にもどりたいと思うのだが、
流離落魄した身の帰るすべがないのをどうしよう。
古詩十九首のうち、男女相思の情を詠んだと見られる十二首を除いた
他の六首は、すべてこのような人生の苦痛と無常を唱ったものである。
たとえば、
「人生天地の間、忽として遠行の客の如し」(第三首)
「人生の一世に寄る、奄忽かなることヒョウ塵の若し」(第四首)
「人生は金石に非ず、豈能く寿考を長くせんや」(第十一首)
「浩々として陰陽移り、年令は朝露の如し」(第十三首)
「生年百に満たずして常に千歳の憂いを懐く」(第十五首)
等があげられる。ここにあげたのは摘句にすぎないが、いずれも感情
の流露という点からいって、前後に及ぶものがないほど美しい。