後漢の末の中平六年将軍董卓は、霊帝のあとを継いで即位したばかり
の皇帝辨を廃して陳留王協(献帝)を立て、みずから宰相となって専横暴
虐を極めた。そのため天下は乱れて、しばらく群雄割拠の時代がつづい
たが、やがて次第に天下の趨勢は曹操(魏)・孫権(呉)・劉備(蜀)に三分
され、いわゆる三国鼎立の時代に移っていった。
このなかで最も立ち遅れたのは劉備であった。すでに曹操が江北を平
らげ、孫権が江東に勢いを得ているとき、劉備にはまだ拠るべき地盤が
なかった。彼のもとには関羽・張飛・趙雲らの勇将はいたが、ともに事
をはかるべき策略の士がいなかった。それを痛感した劉備が、彼こそと
見こんだ人物が諸葛孔明であった。
孔明は戦乱の世を避けて、襄陽の西、隆中山の臥竜岡という丘に草廬
を結んでいた。劉備は礼をあつくし辞をひくくして訪ねていったが、孔
明は不在とのことで会うことができなかった。数日後、劉備はまた訪ね
ていった。だが、やはり会うことはできなかった。しかし劉備は、何故
にそれほどまでに身を屈するのかと咎める関羽や張飛をおしとめて、三
度孔明を訪ねてようやくその目的を果した。
「すでに漢室は傾き、
奸臣が天下をぬすんでおります。
私は身の程もわきまえず、
天下に大義をのべようと志しながら、
知力あさく、
これという働きもできないまま今日に至りました。
しかし、まだ志は捨ててはおりません。
どうかお力添えをいただきたいと存じます。」
いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したので
あった(これを「草廬に三顧す」ともいう)。孔明もその知遇に感じ、草廬
を出て劉備のために事を謀る決心をした。草廬に世を避けていたとはい
いながら、孔明の時勢に対する眼は劉備の期待を裏切らず鋭かった。劉
備の問いに答えて孔明は漢室復興の大計をこう述べた。
「荊州と益州の要害(湖南省洞庭湖以西四川に至る範囲)を
おさえてここを根拠地とし、
西方南方の蛮族を慰撫して後顧のうれいを絶ち、
内は政治をおさめて富国強兵をはかり、
外は孫権と結んで曹操を孤立させ、
機を見て曹操を伐つ、
これが私の考えている漢室復興の大計です。」
劉備の信となった孔明はこの基本政策に従って着々と漢室復興の歩を
進めていった。まさにそれの成ろうとするとき五丈原に陣没して、つい
に果し得なかったけれども。
孔明を得た劉備は、その才幹に傾倒して孔明を師としてうやまい、寝
食をともにした。孔明も全能力をしぼって劉備のためにつくした。はじ
めころ関羽や張飛は、弱輩(出廬したとき孔明は二十七歳であった)の孔
明に対する劉備の傾倒ぶりをねたんで、「孔明をうやまいすぎる」と非
難した。そのとき劉備はいった。
「孤の孔明あるは猶魚の水あるがごとし、
願わくは復言うこと勿れ。」
(孔明を得たことを、
自分は、魚が水を得たことでもたとえたいほどだ。
二度とそんなことはいうな。)
(「三国志」蜀志・諸葛亮伝)
君臣の間柄の親密なことをさして、「水魚の交わり」というたとえが
できたのはここからである。