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前車の覆轍は後車の戒

作者:未知  来源:日本ネット   更新:2004-11-16 16:57:00  点击:  切换到繁體中文

 

 前漢の第三代の皇帝を孝文皇帝という。文帝は高祖劉邦の庶子、第二
代恵帝の弟で、諸侯の一人だったが、漢室の内紛のため、群臣に推され
て帝位についた人。
 
 そのころの名臣の一人に賈誼という逸材がいた。誼は洛陽の人、十八
歳で詩や文に通じ、すでに並ぶ者がなかった。そこで河南の守呉公が、
人物を見込んで門下に召致したところ、そのうわさを聞いた文帝が都に
召し、誼が二十幾歳のとき、博士とした。
 
 文帝は何しろ諸侯上がりであったため、強大な諸侯の中には、その命
を重んじない者も出てきたので、帝は賈誼や陳平・周勃らの名臣を重用
して、諸侯対策をはじめ、国政の刷新に力を入れた。賈誼はこの新帝を
扶けて、政治を行うに当り、中国最古の国である夏以来、秦に至までの
各国の興亡のあとに鑑み、諸侯の力をそぎ、民力を養い、政道を正すこ
とについて、多くの献策を行ったが、その中に次のような文句がある。
 
 「俗に
  『前の車のひっくり返ったわだちの跡は、
   後から行く車にとってよいいましめだ』
  (前車の覆轍は後車の戒)といわれています。
  われわれが模範としている古き良き時代である夏・殷・周の三代は、
  いまや遠い昔とはなりましたが、
  そのよく治ったわけは明らかに知ることができます。
  この先訓に学べない者は、
  聖人の教えに背く者で、
  こんな者が長続きする道理はありません。
  さきの秦が早く亡びたのを、
  われわれは目のあたりに見ております。
  われわれがもしこの愚を避けなければ、
  その前途も暗いものとなることは必定です。
  国家の存亡・治乱のカギは一にかかって、
  ここにあるのです。」
 
 文帝はこの言を聴き入れ、諸侯の地を削り、大国を小国に分割したほ
か、農業を奨励し、田租を免じ、極刑を廃止して、仁政を施した。さら
に質素倹約の風を奨励し、官女が珠玉を飾ったり、裳裾を引きずって歩
くことをも禁止したため、世の中はよく治り、太平と豊年が続き、全国
の倉庫には穀物がギッシリとつまって、民は富み、官吏は仕事に精を出
した。法の網はゆるやかだったが、国民は自重して法にふれることを恥
じるという世になった。              (「漢書」賈誼伝)
 
 
 戦国時代の七国の一つの魏の文侯が、あるとき、公乗不仁という下っ
端役人に酒席のとりもちをさせて、大臣たちと酒宴を張った。文侯は言
った。
 
 「ただ飲んでも興味がないから、
  一つ、味わわずに飲んだ者に、
  罰として大杯で一杯のませることにしよう。」
 
 大臣たちも賛成した。ところがその禁を文侯が真っ先に自分から破っ
た。そこで不仁はさっそく、大杯を文侯にさし出した。文侯はチラッと
見ただけで、どうしても受けとらない。家臣は、
 
 「不仁、いいかげんにしろ。
  わが君はいたくご酩酊だ。」
 
 とやめさせようとした。すると、不仁は言った。
 
 「前車の覆轍は後車の戒ということわざがあります。
  前例に鑑みて、
  気をつけろといましめたものです。
  家臣となることも、
  主君となることも、
  ともにやさしいことではありません。
  いま君が法を設け、
  その法が守られないような先例を作られては、
  一体どういうことになるか、
  よくお考えになって、
  どうしても罰杯をお受け下さい。」
 
 文侯も「なるほど」と思って、いさぎよくその大杯を受けてグッと干
し、この不仁を以後重く用いたという。        (「説苑」善説)
 
 


 

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