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創業は易し守成は難し

作者:未知  来源:日本ネット   更新:2004-11-16 16:58:00  点击:  切换到繁體中文

 

 初唐の盛世を形容して、よく唐初三代の治という。
 
  貞観の治(太宗の627~734)
  永徽の治(高宗の650~655)
  開元の治(玄宗の713~734)のことである。
 
 これらの時代には、皇帝が奢侈を戒め、よく賢臣を用いて、天下大い
に治まったからである。
 
 とくに太宗の貞観の治は、後世の治世の鑑とされ、民は「道に遣ちた
るを拾わず、商旅は野宿する」(道傍に落ちているものを拾わず、盗賊が
いないので安心して野宿する)ほどの太平の世であった。太宗が群臣と
政事を論じた語を類偏した「貞観政要」が、徳川家康の施政の参考にさ
れたことは有名である。

 貞観の治が生まれた原因の一つは、前述したように、太宗が奢侈を戒
め、多くの賢臣を得たためであった。貞観の初め、決断に秀でた杜如晦
と、計を練るに秀でた房玄齢の名コンビが左右の僕射(大臣)を、剛直の
魏徴が秘書監長を、清廉の王珪が侍中(侍従職)をつとめ、太宗の政治を
よく輔佐したからにほかならない。
 
 あるとき、太宗が、王珪に向かって、
 
 「その方は、玄齢以下のものたちと比べてどうか。」
 
 と下問したとき、王珪はこう答えている。
 
 「孜々として国に奉じ、知って言わぬことのない点では、
  臣は房玄齡には及びません。
  才が文武を兼ね、入っては宰相、出でては大将たる点では、
  臣は李靖にかないません。
  君主が堯舜のようでないことを恥じ、
  諫諍をもって己の任となす点では、
  臣は魏徴にかないません……。」
 
 また、太宗はかつて近臣たちにこう下問したことがあった。
 
 「創業と守成とはいずれが難き?」
 
 房玄齡はこう答えた。
 
 「草眛の初めは、
  群雄競い起り、攻め破って降伏させ、
  戦って打ちかつのですから、
  そういう点からいえば、
  創業の方がむずかしいと思われます。」
 
 魏徴は、しかしこう答えた。
 
 「昔から帝王は位を艱難の間に得て、
  これを安逸の間に失うものです。
  そういう点からいえば、
  守成の方がむずかしゅうございましょう。」
 
 すると、太宗は言った。
 
 「玄齢は朕とともに天下を取り、百死に一生を得た。
  だから創業のむずかしさを知っている。
  徴は自分とともに天下を安んじ、
  常に驕奢は富貴から生じ、
  禍乱はゆるがせにするところから生ずることを恐れている。
  だから、
  守成のむずかしさを知っている。
  しかし創業のむずかしさは、もう去った。
  いまは、守成のむずかしさを諸公らとともに慎もう。」
                        (「唐書」房玄齡伝)
 
 
 「創業」は「孟子」に見える語で、「業を創める」(しごとはじめる)こと。
「守成」とは成業を保守するいみである。「貞觀政要」の注に、
 
 「古より業を創めてこれを失うものは少なく、
  成るを守ってこれを失うもの多し」
 
 とある。
 
 太宗は自分の偉采が臣下に恐れられているのを知っていて、いつも温
顔で群臣に接し、諫めるものを賞した。ただ、末年には東征を諫められ
ても聴かず、しだいに奢侈に流れていった。「創業は易し守成は難し」の
感が深い。高宗の永徽の治も、いわゆる武韋(則天武后と韋后)の乱のた
め、また玄宗の開元の治も楊貴妃や安祿山の乱のため、しだいに傾いて
いったのである。
 
 


 

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