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樽俎折衝

 春秋の頃、斉の荘公が家臣の崔杼に殺されるという事件がおきた。荘
公が無道であって、崔杼の妻と通じたから、義を正すために討ったとい
うのであった。事の真意はわからない。が、荘公が殺されたのは事実で
あった。そこで、荘公の弟が立って景公となった。しかしその時には、
もう崔杼やそのなかまである慶封の力がつよく、おさえることは出来な
い。それどころか景公は、崔杼を右相に、慶封を左相にし、この二人に
反対のものは殺さんと盟うことになった。群臣は皆その勢いに従って、
つぎつぎに盟った。
 
 ただ一人、盟わないものがあった。晏嬰(字は平仲、晏子)という。霊
公、荘公の二代につかえて、人望もあった。彼は天をあおいで、こう嘆
じただけであった。……君に忠であり、国に利となるものになら従いま
する、と。慶封はこれを殺そうといったが、崔杼にとどめられた。
 
 斉の内紛はなおつづいた。が、まず崔杼が殺され、やがて慶封も、風
をくらって呉の国にのがれた。このとき、さきの晏嬰が斉の相国になっ
て、国政をあずかることになる。これが、春秋時代に名だかい名相、晏
相国である。
 
 春秋のころには、大国だけでも十二の名があげられる。小国をかぞえ
れば、百をこえる。晏嬰は、国内ではこみいった派閥の騒ぎをしずめ、
外に対しては、このように雑然とした情勢のなかで、斉の地位を安泰に
しようと心をくいたのである。その人となりはおだやかで、くらしは質
素だった。同じ狐裘(狐の毛皮でつくった皮ごろも)を三十年も着ていた
というのもこの人である。景公が広い土地をあたえようとしたとき、彼
は、
 
 「欲に足りれば、
  亡びる日が近うございます」
 
 といって、辞退している。
 
 
 晏嬰は、しばしば他国に行って会談した。また諸侯の使いがくれば、
これと応待して、くるいのない外交手腕をしめした。こんな話がある。
それは、彼が景公にしたがって、強大をほこる晉国にでかけけたときの
ことだ。
 
 余興として投壺をすることになった。矢を投げて壺に入れる遊びであ
る。晉の家臣がすすみでて、
 
 「もしわが君がお中てになれば、
  諸侯の師となるしるしなり」
 
 と、讃辞をのべた。
 
 晉の公平は投げて、中てた。やんやの喝采だった。この時、晏嬰は進
み出て、
 
 「もしわが君がお中てになれば、
  斉は晉に代わって興りましょう」
 
 とのべた。
 
 景公は投げて、中てた。晉の公平は怒り、家臣たちもすわとばかり立
ちあがった。しかし晏嬰は
 
 「投壺はたのしみごと、
  賛辞はざれごとであって盟いではありませぬ」
 
 と押しかえし、景公とともに、しずかに退出した。
 
 これは晏嬰の外交をほめるための作り話かもしれない。晏嬰が外交に
あたって心をくだいたのは、もっと複雑で、大規模な力の関係を調整す
ることであったろう。だが、ともかく晏嬰は、斉国の舵をしっかりとと
って、からみあった諸国のあいだを進んで行ったのである。そのことを
晏嬰の言動をしるした「晏子春秋」は、こう書いている。
 
 「樽俎の間を出ずして、
  千里の外に折衝するとは、
  それ晏子の謂なり」
 
 酒だるをおき、いけにえの動物(俎)をならべ、こうして宴席で談笑し
ながら、敵の先鋒をさけて有利に話を決めてしまう、いわば千里のかな
たから敵の攻撃(衝)を折いてしまうとは、まさに晏子のことである。
 
 
 酒席でなごやかな外交交渉をおこない、有利にことを結ぶことを「樽
俎折衝」というのは、ここから出ている。転じて、談判やかけひき、国
際上の会見などをこの語で言うようになった。おなじ酒席であっても、
本来は待合政治のことではない。
 
 

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