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泰山北斗

 李白(太白)・杜甫(子美)・白居易(楽天)とならんで、唐代の四大詩人
といわれた韓愈(退之)は河南省の生れ、二歳で孤児となり、以来刻苦勉
励して、唐九代の徳宗のとき、二十五歳で進士に挙げられ、だんだん出
世して吏部の大臣となった。この間しばしば皇帝に諫言をしては左遷さ
れたが、一番有名なのは十代憲宗の元和十四年、帝が仏骨を迎え、宮中
に三日間留めてのち諸寺に送ったことをきびしくいましめ、
 
 《仏教は邪教であり、仏骨などは水火に投ずべきである》
 
 と痛論したいわゆる「仏骨を論ずるの表」を奉ったため、仏教への信
仰心の厚い帝の逆鱗にふれ、遙か広東州の潮州刺史に左遷されたことで
ある。このとき作ったのが、いまも名高い、
 
   雲は秦嶺に横たわって家いずくにかある
   雪は藍関を擁して馬進まず
 
 という[左遷せられて藍関に至り、姪孫の湘に示す]の一詩である。
 
 次の十一代穆宗のとき、再び召しもどされて国子祭酒に任ぜられ、更
に兵部侍郎、吏部侍郎を歴任して退官、間もなく五十七歳で死亡した。
礼部尚書を贈り、文とおくり名された。
 
 
 韓愈は文の模範を先秦に求め、よく六朝時代の悪習から抜け出したた
め、その文章は孟子に迫るほどうまい……とまでいわれた。唐代三百年
の間の第一人者であるのはもちろん、中国古今を通じて屈指の名文章家
とされているが、その韓愈のことを書いた「唐書」の「韓愈伝」の賛には、
 
「湯が怒って以来、韓愈は六経(詩・書・易の各部、春秋・礼記・楽記)の
 文をもって、もろもろの学者の導師となった。韓愈が死んで後は、
 その学もいよいよ盛んとなり、ために学者は韓愈を《泰山北斗》を
 仰ぐように尊敬した。」
 
 と書いてある。
 
 
 泰山は中国の五岳の一つで、山東省にある。ちょうど日本人が富士山
を仰ぐと同じように、古来から名山として敬われている。
 
  〈泰山巖々〉(詩経)
  〈泰山は土壌を譲らず〉(戦国策)
  〈泰山前に崩るるも色を変えず〉(蘇洵文)
  〈泰山卵を圧す〉(晋書)
 
 などなど、いずれも泰山の威容をたたえて諺にしたものである。
 
 一方の北斗は、北辰、つまり北極星のことで、「論語」にも《北辰のそ
のところにいて、衆星のこれを迎えるが如し》とある通り、星の中心と
して仰がれていることを、立派な人物になぞらえている。
 
 
 《泰山北斗》とはつまり、それぞれの道で、人々から尊敬されている
人のことであり、現在では《泰斗》と略されている。とくに学問の分野
で仰がれる人のことをいう場合が多い。
 
 

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