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天網恢々疏にして漏らさず

 物事を、断乎としてやることに勇気があって人を平気で殺し、断乎と
してやらない方に勇気があって人を生かす。生かすのと殺すのと二つの
内、一つは利があり、一つは害がある。だが、天が憎むのは必ず殺の方
だ。とすれば、物事を、断乎としてやることに勇気があって人を殺す者
は、天の意思にそくことになるわけだから、当然、天の罰を受けていい
はずだが、世間のことは必ずしもそうは行かない。反対に、人を生かし
た者、必ずしも天の賞を受けるわけではない。大勢の人を殺して、天罰
を受けない者もある。
 
 だから人々は、この活殺二つの利害と、天の憎むところが一体どちら
にあるかがわからなくて迷うし、聖人でさえも、この点がハッキリしな
くて困っている。
 
 だが、長い目で見れば、この二つの利害と、天の憎む所が一体どちら
にあるかは、自から明らかである。天の道は争わずして勝ち、言わずし
てよく応じ、招かずして自から来、緩やかであってよく謀る所にある。
 
 だから悪運の強いときは、なるほど一時は天にそむいても、罰を受け
ないこともある。しかし、結局は天の罰を受けることは必至だ。天の網
は恢々として広大であり、その網の目は疏だけれども、善悪の応報は必
ず下し、決して失敗することはない。   (天網恢々疏にして失わず)
 
 
 以上の文句は、「老子」第七十三章にある。この章は、天道が生を好
み、殺を憎むことを、老子一流の論法でのべたもの。俗にいう「積善の
家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃(わざわい)あり」(「易経」
文言)とか、「悪事千里を走る」(北夢瑣言)とかいうのは、このへんの事
情を物語るものであろう。
 
 老子は楚の苦邑(河南省)の人で、孔子よりやや年長、周に仕えた。あ
るとき孔子が訪ねて行って、礼を問うたところ、
 
 「お前の飾りつけと、
  欲ばり根性と、
  みだらな心を捨てよ。
  いうことはそれだけだ。」
 
 と叱りつけ、さすがの孔子をして、
 
 「今日は初めて竜というものを見た。」
 
 と嘆息させたという。後に官職をやめ、西に向かって函谷関を通った
とき、関令の尹喜が頼んで書き残してもらったものが、今日に残る「老
子道徳経」五千余言だという。
 
 老子の教えは《無為自然》にある。つまり赤ん坊のように天真素朴、
無欲であれば、世の中には何の問題も起らない。礼楽だの、仁義だの、
考悌だの、性理だの、つまらぬ区別を言い立てるから、かえって世も乱
れ、人倫もおかしくなる。すべてに無抵抗主義こそ望ましいというので
ある。
 

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