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五十歩百歩
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孟子は西暦紀元前三七一年に生れたという説があるが、たしかなこと はわからない。五・四・三世紀と続いた戦国の世のまっただ中、つまり 四世紀中葉に生きていた人である。その乱脈な世に人道主義的な孔子の 教えをひろめ、仁義の道を説いて廻った孟子は、当時の人々にはずいぶ ん変った人間に見えただろう。しかも孟子は徹底した理想主義者で、人 に自説を説く時の口舌はがむしゃらと思えるほどである。またそれだけ に気概のこもった鋭い弁舌を展開する。 当時の思想家や策略家や知恵者たちが諸国の王に遊説して廻ったよう に、孟子もまた多くの王に遊説をこころみた。魏の国の王、恵王に招か れた時の話である。恵王は都を梁(今の開封)に遷したので梁の恵王とも いわれる。 魏の国は当時、西からは虎狼とあだなされた恐ろしい秦の国に圧迫さ れ――実はこの圧迫にたえかねて東の梁へ遷都したのである。――また 東の斉の国との戦には再三にわたり大敗を喫し、逆境のどん底にあえい でいた。恵王は名の知られた賢士や逸材を招いて、意見をきき、あるい は召しかかえるなど、極力国運の挽回につとめていた。孟子もそのよう にして招かれたのである。 恵王「先生よ、 千里を遠しとせずしてようこそおいでくださったは、 ほかでもなく、私の国を強めようとのおぼしめしでござろう。」 孟子「王の国が強くなるか、ならぬか、それはさておき、 私めは仁と義とについてお話ししたいと思ってまいりました。」 両人の会話はこんなふうにして始まる。この言葉は書物「孟子」の冒 頭に出てくる。 さて、話はさらに進み、いろいろのことに及ぶ。孟子はここにしばら く滞在した。恵王は自分の思惑とどうもちぐはぐな孟子の考えをともあ れ辛抱強くきいた。或る日のこと、 恵王「先生よ、あなたの民を思えというお教え、 ふつつかながらずいぶん私もつとめておるつもりだ。 たとえば私の国の河内地方が凶作の年には、 若い者たちは河東地方に移住させ、 残った老幼者たちには河東の穀物を運んで来て食わせ、 その逆に河東地方が飢饉の年には若い者を河内に移住させ、 河内の穀物を河東に運ぶなど、極力つとめておるのだが、 百姓どもが私を慕い集って来る様子もない。 隣国の民は依然として数の減る様子もなく、 私の国の民が数を増す様子もない。 民を思えとおっしゃる先生のお考えからすれば、 これはどういうことですかな?」 孟子「王は戦争がお好きでしたな。 ひとつ喩えばなしを申し上げましょう。 戦場でいざ両軍矛を交えんとし、 合図の太鼓が勇ましくなったと致しましょう。 いよいよ白兵戦です。 と或る兵士はすっかりおじけづき、 甲冑をかなぐり棄て、刃物をひきずって、 すたこらすたこら逃げ出しました。 そして百歩ばかりで立ち止りました。 ともう一人逃げ出した奴がいて、 こいつは五十歩のところで立ち止り、 百歩逃げた奴を[卑怯者!]といって笑ったといたしましょう。 いかかです、王よ!」 恵王が「いやはや、ばかげたことよ、 五十歩も百歩も、逃げたに変りはないではないか。」 と答えると、すかさず、 孟子「それがおわかりなら、王よ、 隣国より民を多くなさりたいという、 王のお望みもちと似通ったことですぞ!」 そう言って、孟子は自分の話したい中心のことへと恵王をひきずりこ んでいった。その中心のこととは、孟子の思想体系の中核をなす王道、 つまり王者の道である。この王道にまともにぶつかったのでは話が退屈 になる。それで孟子は王の最も好きな戦争の話を持ち出して興味をさそ ったのだ。 原文では、「五十歩をもって百歩を笑わば則ち如何」という問いかけ に対して、恵王は、「不可なり。ただに百歩ならざるのみ。これもまた 走れるなり。」と答えている。 隣国の政治のやり方も王の政治のやり方も孟子の王道からみれば、い かに恵王が民を思おうと五十歩百歩のちがいで、結局は同じこと。真に 民を思う王者のやり方とは逃げるか逃げないかほどの本質的な差異があ る。王道とは、常日頃からの民の生活の安定、その安定の上に築かれ、 民を主人とし、民のために存在する愛情と礼儀との道徳国家、教育のゆ きわたった文化国家それをめざすことであり、またそれ以外の何物をも めざさない考え方なのである。その国が強大であるか否かは王道にとっ ては関心のないところであった。
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作品录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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