楚の覇王項羽は、漢王劉邦と五年間にわたって天下の覇を争ったが、
「力」と「気」だけに頼って范増のような謀将にまで見限られ、しだい
に劉邦に圧され、ついに天下を二分してこれと講和した。だが張良・陳
平の計略によって、東へ帰る途中、垓下(安徽省霊壁県の東南)で韓信の
指揮する漢軍の重囲に陥ってしまった。漢の五年のことである。
項羽は戦いに敗れて、兵少なく、食尽きていた。やがて夜になった。
するとどこからともなく、歌声が起こってきた。あるいは遠く、あるい
は近く、東からも、西からも、北からも、南からも、歌声は起こってく
るではないか。耳を傾けると、それは楚の歌声なのだ。張良の計略だっ
た。果たして楚の出征兵――農民たちは、なつかしい故郷の歌声をきい
て、望郷の思いにかられ、戦意を挫かれて脱落していった。漢軍に下っ
た楚の九江の兵たちが歌ったのだった。
項羽は四面楚歌するのをきいておどろいて言った。
「漢はもう楚を取ってしまったのか。
何というおびただしい楚人だ!」
四面楚歌――孤立無援の重囲に陥ったのだ。もはやこれまでと思った
項羽は、起きて帳の中に入り、訣別の宴を張った。
項羽の軍中に虞美人という寵姫が居て、影の形にしたがう如く、いつ
も項羽のそばをはなれなかった。また、騅という駿馬がいて、項羽はい
つもこれに乗っていた。
項羽は虞美人があわれであった。彼は悲歌慷慨し、自ら詩を作って歌
った――
力、山を抜き、気、世を蓋う。
時、利あらず、騅、逝かず。
騅、逝かず、 奈何すべき。
虞や、虞や、 若を奈何せん。
反復して歌うこと数回。虞美人も別れの悲しみを込めて絶え入らんば
かりに和して歌った――
漢兵已に地を略す、
四方楚歌の声、
大王意気尽きぬ、
賤妾何ぞ生に聊ぜん。
鬼をもひしぐ項羽の顔に幾すじかの涙が流れた。左右のものもみな泣
き、誰一人として顔を上げうる者はいなかった。悲愴の気、堂に満ち、
虞美人はヒシとばかり項羽に取り縋る。だがもはや如何ともしがたい。
「何でおめおめ生きておりましょう」そう歌った虞美人は、果たして項羽
に宝剣を乞うて軟肌に突き立て自決してしまった。
その夜、わずか八百余騎を従えて脱出した項羽は、翌日、漢軍に突入
し、みずから首をはね、三十一歳で死んだ。故郷に心引かれていったん
烏江まで走ったものの、挙兵した自分がおめおめ江東へ戻る心を恥じた
覚悟の上の自決であった。 (「史記」項羽本紀)
虞美人の血が滴った土の上に、やがて廻ってきた春、端麗な花が咲い
た。その花は虞美人の在りし日の姿のようにやさしく、虞美人の貞潔な
血のように紅く、英雄項羽の運命を傷しんだ虞美人の心のように悲しげ
に風に揺れていた。人々は、この花を虞美人の生れ代わりと考え、虞美
人草(ひなげし)と呼んだ。唐宗八大家のひとり、北宋の曾鞏に、「虞美
人草」という一詩がある。その中にいう――
三軍散じ尽きて旌旗倒れ、
玉帳の佳人坐中に老ゆ。
香魂、夜、剣光を逐って飛び、
青血化して原上の草となる。
芳心寂寞として寒枝に寄る、
旧曲聞き来たりて眉を斂るに似たり。
哀怨徘徊して愁いて語らず、
恰も初めて楚歌を聞きし時の如く。
全軍尽く敗れて軍旗倒れ、
玉帳の佳人は敗戦の悲しみに色蒼ざめて、
いながらに老けてしまった。
その香魂は、夜陰、一閃の剣光とともに飛び、
その碧血は化して原頭の草となった。
いま、佳人の魂は侘びしげに、この寒々とした枝に宿り、
紅の花には、
項王の歌った「抜山蓋世」の歌を
傷ましげに眉をひそめて聞いていた、
あの時の虞美人さながらの風情がある。
さあれ、
哀怨を抱いて原頭をさ迷う佳人の魂は悲愁のあまり語らない、
四面の楚歌を聞いたあの敗戦の夜のように。
――というほどの意味であろうか。