周の襄王の二年(BC.650)、宋の桓公が死んだ。死ぬ前に太子の慈父は
庶兄の目夷が仁徳に富んでいるのを見て、太子を目夷に譲ろうとした。
ところが目夷は、
「国を譲ることのできる人こそ最大の仁者です。」
と言って固く辞した。そこで慈父が位に即いて襄公となったが、目夷
を相に任じたので、宋の国は大いに治まったという。
ところがこの襄公の在位七年目に、宋国に隕石が五つ落ちた。これは
諸侯に覇となるきざしではないかと勝手に考え、次第に襄公は野望を逞
しくしていった。まず斉の桓公の死後(BC.639)、公子どもが候位を争っ
ていた時、襄公は斉軍を討って、公子昭(孝公)を立てた。続いて周の襄
王十三年(BC.639)春には、春秋第一の覇者斉の桓公をまねて、鹿(宋領)
で宋と斉と楚の諸侯が集まり、襄公は盟主となった。この時目夷は、
「小国が覇を争うのは禍のもとになるでしょう」
と言った。
同年秋には盂(宋領)で、宋・楚・陳・蔡・鄭・許・曹の諸侯を会した
が、強国楚は、襄公のこういう行動を不遜とし、秘かに計って捕虜にし
てしまった。冬、襄公は許されて帰国したけれども、目夷は、
「禍はこれからだ。
まだまだ君は懲りていない」
と言った。
翌年春のことである。鄭は襄公を無視して、勝手に楚の国と通じた。
怒った襄公は夏、鄭を攻撃した。目夷は、
「いよいよ禍が起るぞ」
と言った。
冬十一月のことであった。果たして楚は鄭を救いに来た。襄公は泓水
(河南省)でこれを迎え討つことにした。楚軍は続々と川を渡りつつあっ
たが、まだまだ渡りきれないで、陣容も十分でなかった。宋軍の方は完
全に整っていた。そこで目夷は主張した。
「敵は多く味方は少ないのですから、
敵陣がよく揃わない今のうちに討つべきです。」
しかし襄公は賛成しなかった。
「君子は相手の弱みにつけこむものではないぞ。
敵陣のそろわない弱みに攻め入るなんて卑怯千万だ。」
しかし目夷は敵軍が渡り終えても、まだまだ十分に整備していないの
を見て言った。
「楚は強敵ですから、
今攻めても勝てるかどうかわかりません、
戦いは勝つためにするのですから、
敵の弱点に乗ずるのも立派な方法だと思います。」
だが襄公は奇妙な君子人を気取っていた。彼は楚の体制が整うのを待
って、やっと攻撃した。その結果、弱小な宋軍は散々な目にあって敗北
し、襄公自身も股に傷を受け、それが原因で翌年(BC.637)五月死んでし
まった。彼は春秋の五覇の一人に数えられるが(一説では数えない)、と
うてい斉の桓公や晉の文公のような大人物ではなかったのである。
この説話は「春秋左氏伝」によったが(「十八史略」にもある)、これか
ら出て「無用の情け」を「宋襄の仁」という。