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多岐亡羊

作者:未知  来源:日本ネット   更新:2004-11-16 18:47:00  点击:  切换到繁體中文

 

 学問には知識の集積と理論分析が必要なことは言うまでもないが、い
たずらなる枝葉末節のせんさくに堕して、その本筋の目標を見失うのは
愚かなことであるという意味を諷した寓話で、「烈士」の「説符篇」に見
えている。
 
 楊子の隣人の羊が一匹逃げた。その隣人は一家総出で、楊子の家の小
者まで助太刀に頼み、羊探しに出かけるというさわぎに、楊子が、
 
 「たった一匹の羊をなぜそんなに多勢で追いかけるのか?」
 
と尋ねると、
 
 「逃げた方角には岐路が多いから。」
 
という答え。やがて連中はクタクタになって帰ってきて、
 
 「岐路の中にまた岐路があって、
  とうとう羊がどこに行ったかわからなくなった。」
 
と言う。楊子はその話をきくと、すっかりふさぎこんで、しばしば物も
言わず、その日一日、笑い顔さえみせない。弟子たちは、たかがつまら
ぬ羊一匹、しかも自分のものでもないのに、楊子がなぜそんなにふさぎ
こんでしまったのか見当がつかず、訳をきいても返事をしてくれない。
 
 他日、賢い弟子の一人が、このことについて、楊子と問答した結果、
目標が羊一匹であっても、岐れ路、岐れ路と迷いこんで追求するようで
は結局それを見失ってしまう。学問の道もそのようなもので、帰一する
大事なポイントを見失うような追究の仕方は無意味であるということを
悟ったというのである。学問の分化的傾向の甚しい今日の学者先生たち
にも、よく心得ておいてもらいたい話ではあるまいか。
 
 
 似たような話が「荘子」の「駢拇篇」にもある。ある家に二人の下男が
あって、それぞれ羊の番をしていたが、二人とも番をしていた羊を逃が
してしまった。主人が怒って、
 
 「いったい貴様たちは何をしていたんだ。」
 
ときくと、一人は、
 
 「本を読むのに夢中になっていたもんで。」
 
と答え、一人は、
 
 「さいころ遊びに気をとられてつい……。」
 
と答えた。
 
 なるほど二人のやっていたことには相違がある。しかし羊の番をする
という肝心の目的を見失った結果においては変りがない。要はほんとう
の目的をしっかり把握しておくことだというのである。
 
 
 これも学問、いや学問ばかりではない。すべてのしごと、人間の生き
かたというものについて深い示唆を与える話といえよう。
 
 


 

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