「他山の石、以て玉を攻くべし」という言葉は、他処の山から出る普通
の石でも、この山から出る玉を磨くことができるという意味で、石を小
人に喩え、玉を君子に喩えて、君子も小人によって修養をつみ、学徳を
つんでゆけることを言い、「詩経」の「鶴鳴篇」に見える。
鶴は九皐に鳴いて 声 野に聞こゆ
魚は潜んで淵に在り 或いは渚に在り
彼の園を楽しめども 爰に樹檀有り
其の下にこれ落葉あり 他山の石 以て錯と為すべし
鶴は九皐に鳴いて 声 天に聞こゆ
魚は渚に在り 或いは潜んで淵に在り
彼の園を楽しめども 爰に樹檀有り
其の下にこれ穀あり 他山の石 以て玉を攻くべし
鶴が山深い沢で鳴いても、その声は四方の野にも、更には天に
も聞こえるように、身に誠あれば、目には見えなくとも、おの
ずから形にあられる。魚が淵に潜んだり渚に浮遊したりするの
は自然の習いであるが、理のあり方も、魚が時に応じて浮き沈
みするのと同じであって定まってない。園に檀(香木)があって、
そこで楽しく安らおうとしても、その下には汚い落ち葉が散り
しいていてままならない。粗悪な石といえども玉を磨くための
砥石となるので、玉はそれによって光を発し、器をなすように、
小人といえども君子の修養のために役立つので、決してこれを
決してこれを捨て去ることはできない。
「他山の石以て玉を攻くべし」は「切磋琢磨」(骨角は切ってのち磋き、
玉石は粗く琢いてのち更にヤスリで磨く=「詩経」衛風)などと共に、昔
から修養のための名句としてしきりに用いられてきたが、われわれの使
い慣れた言葉に軽く置きかえるとすれば、「人のふり見てわがふり直せ」
と言うところであろう。