漢の高祖劉邦は宿敵の項羽を打倒して天下を統一した(BC.202)が、国
家の基礎はそれだけでは安泰というわけにはゆかなかった。高祖のもと
で項羽と戦った猛将達が、今では漢にとって危険な存在となっていた。
彼はみな、高祖のためという忠誠よりは、自分の天下を夢みて力のかぎ
りに戦った野心家なのである。皮肉なことではあるが、漢の成立のため
に大きな働きをした者ほど油断がならないということになるのである。
その筆頭はいうまでもなく楚王韓信であった。高祖は韓信が項羽の将で
あった鍾離昧をかくまっったことを理由として韓信を捕え、位を下げて
淮陰候にした。
ある日、高祖は淮陰候韓信と諸将の能力について話した。甲は何万の
軍を指揮する力があるが、乙はそれには及ばぬと品定めをしてゆくうち
に、話は当の二人のことになった。
「わしはいったい、
何万くらいの軍の将軍になることができるだろうか?」
「さよう、陛下はせいぜい十万くらいのものでございましょう。」
「なるほど、では貴公はどうなのだ?」
「わたくしは多々益々辨ずで、
多ければ多いほどよいのです。」
《ははは……》と高祖は笑っていった。
「多々益々辨ずなら、
どうしてわしに捕まったりしたのだ?」
韓信は言った。
「それはまた話が別です。
陛下は兵に将たることはできなくても、
将に将たることがおできになります。
これがわたくしが陛下に捕えられた理由です。
それに、
陛下のお力はいわゆる天授のもので、
人力のおよぶところではありません。」
この物語は「史記」および「漢書」のもとに記すところで、有名な「多々
益々辨ず」はここから出たのである。ただ「漢書」に「辨ず」となってい
るのが「史記」では「善し」となっている違いがある。