南北朝のころ、南朝の梁国に張僧ヨウという人がいた。右軍将軍や呉
興太守になったというから、官人としても志をえたほうではあろうが、
張僧ヨウの名が高かったのは、 そのためではない。彼のふるう画筆に
よってだった。とくいとする山水や仏画はいうまでもなく、一管の筆で
あらゆるものを生けるがごとくに画きだしたという。いわば中国の伝統
的な大画家だ。
あるとき張僧ヨウは、金陵(今の南京)の安楽寺から、竜を画くことを
たのまれた。彼は寺の壁にむかい、やがて筆をおどらせた。黒団々たる
むら雲をけやぶって、いましも天に昇ろうという二匹の竜‥‥、その鱗
の一枚一枚にも、鋭くはった爪にも、強い生命がみなぎっている。これ
をみて感嘆しないものはなかった。
ただ、ふしぎなことが一つあった。竜の眼に、睛が画きこんでないのだ。眼はうつろのままだった。どう考えてもおかしなことではないか。
もちろん、せんさく好きの人々がほっておくはずがない。張僧ヨウが、
理由をうるさくたずねられたのは、まあ当然のなりゆきだろう。
そんなとき、彼はいつでも言ったという。
「いや、睛は入れられない。
あれを画きこんだら、竜は壁をけやぶって、
天に飛び去ってしまうのだ。」
うそだ、そんなことがあるものか‥、もったいぶっているのさ‥‥。
小うるさい噂がたったろう。ともかく、だれも信じようとしなかった。
睛を入れてみせてくれと、みんながせがんだともいう。
とうとう張僧ヨウは、その双竜の一つに、睛を画き入れることになっ
た。彼は、墨をふくませた筆を、竜の眼にさっとおろした。ふいに、壁
のなかから電光がきらめき、はげしい雷鳴がとどろいた。と見るや、鱗
をひらめかせた怪竜が壁をおどりだし、うつけたような人々を尻目に、
はるか天のかなたに飛び去った。やっとわれにかえった人々が、また壁
を見れば、双竜の片方はすでにその中になく、睛を点じなかった一匹だ
けが、まだ残っていたという(『水衡記』)。
このことから、「画竜天睛」といえば、物事の眼目になるところや、
最後のしあげをすることを言うようになった。逆に「画竜天睛を欠く」
といえば、全体としてはよくできているが、だいじな一点が足りません
な、ということになる。願いごとの成就するのを「入眼」というのも、
これとかかわりあいがあろう。
こういう孤高の名人の語り伝えは、われわれのあいだに、ふしぎな人
気をもっている。中国でも張僧ヨウのほかに、民間の名匠魯般などの伝
説が多いし、わが国でも、飛騨の工から、応挙、甚五郎まで、かずかず
の話がある。画にかいた雀がとびだしたという、落語の「抜け雀」も、
べつに由来をせんさくされもせず、ただよろこんで語りつがれてきた。
すぐれた人間の力が竜を天におどらせ、木の人形に生命をふきこむとい
うこと、それがわれわれの心の奥底を、さわやかにゆすぶるのであろう
か。そして、自分たちのほうは、願いごとが叶ってしまってから、やっ
と目なし達磨に目を画きこむのである。